中里地区
新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリング、
今回は我孫子市中里地区。
中里地区はこんなところ
なかざと、
とそのまま読む。
利根川と手賀沼の間だから中里、
ってことはないか。
そうだとしたら、
他にもみんな中里になってしまうもんな。
中里地区MAP
我孫子市中里地区は、
JR成田線の湖北駅の近く。
地図では、
こんな感じ。
中里 諏訪神社
それで今回は、
周辺スポットということで中里 諏訪神社。
前回の都部新田 天照皇大神宮/水神宮からは、
自転車で10分弱といったところか。
概要
この諏訪神社は、
天正四年(1576年)に創建。
中里村の鎮守、
だったという。
境内掲示板の由緒に、
詳しく書かれている。
中里諏訪神社の由来
当諏訪神社の創建は古く、
戦国の世が漸く終わろうとする、
天正四(1576)年三月のこととされる。
祭神は「武御名方尊」である。
武御名方尊は、
祖父を須佐之男命、
父を大国主命とし、
本社諏訪大社のある信濃国(長野県)の開発に尽力した神として知られる。
創建から江戸時代までの詳細は、
当神社に関する古文書や記録の類が全くなく、
念ながら不明とせざるを得ない。
しかし当神社が村民の寄合や諸祈願・祭礼の場、
すなわち中里村の鎮守社(土地を守る神)として、
村民の信仰を集めていたことは間違いない。
「湖北村誌」によれば、
当神社の規模は、
大正九(1920)年の時点で境内坪数が五百三十五坪、
氏子戸数五十戸、采田(神田)が六畝四歩とのことである。
また、
明治四十一年十二月二十六日には、
北島原にあった熊野神社(天正五年一月創建)・外川神社(天保二年三月創建)・山王神社、
六番作の水神社、
南原の稲荷神社、
弁天作の弁天神社が当諏訪神社に合祀されている。
現在の社殿は、
大正十五年建立の社殿老朽化に伴い、
氏子総代・中里区民その他有志の協力により、
平成十六年十二月に再建されている。
社殿は本殿(二・五坪)、
祝詞殿(三坪)、
拝殿(八・七五坪)からなり、
いずれも銅板葺きで本殿屋根上に千木一対、
鰹木六本を備えた堂々たるものである。
また鳥居(明神鳥居)には「明治三十五年六月」の年紀が刻まれている。
当神社に関わる伝統行事には、
元旦の元朝詣り、
正月七日の御備射、
二月の初午(稲荷祭)、
十月の例大祭、
十一月の七五三などがある。
とくに例大祭には子供神輿が中里区内を練り歩き境内では厳粛なる神事のほか素人演芸会が催されるなど、
中里区民のみならず湖北地区住民交流の場として、
毎年盛大に挙行されている。
また元朝詣りでは、
初詣客に甘酒が振る舞われ、
その行列は境内からあふれるほどの賑わいをみせている。平成十七年十月記
境内掲示
この掲示には、
神社境内内石造物一覧が詳しく書かれているが合祀社や参拝碑などが殆どだ。
稲荷神社
鳥居手前には、
稲荷神社。
その隣には弁財天で、
七福神も一緒だ。
石造物
正直、
合祀社や参拝碑なのでさほど面白みには欠ける。
手水鉢は平成十七年(2005年)の新しいものだが、
龍の口から水は流れていなくて溜まってもいない。
狛犬は昭和七年(1932年)のもので、
台座には伊勢大々講中と刻まれている。
一覧と照らし合わせていくと、
先ず1番古い延宝九年(1681年)勢至菩薩が下の写真の左。
為奉彫刻尊像一躯 中里村、
とある。
真ん中は、
明治二十年(1887年)熊野神社碑。
右は、
宝暦六年(1756年)の不明石祠。
こちらは左から天保十五年(1844年)、
浅間大菩薩の石祠。
年不明山王神社碑に、
大正六年(1917年)の伊勢参り碑。
明治三十三年(1900年)、
今宮大杉神社碑。
昭和三十一年(1956年)、
出羽三山参拝碑。
明治三十八年(1905年)、
三峯神社石祠。
昭和●年と平成十二年(2000年)、
三峯神社碑と石祠。
などなど、
などなど。
というわけで…
今回の新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリングは、
札所ではなくて中里地区の周辺スポット。
前回の都部新田 天照皇大神宮/水神宮からは、
自転車で10分弱のところにある中里 諏訪神社。
石造物はそれほど惹かれるものがあるわけではないが、
何だか雰囲気が良いところだ。
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