小文間 大聖寺
新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリング、
今回は取手市小文間地区から。
第54番札所、
小文間 大聖寺を訪ねる。
高龍山 福寿院 大聖寺は、
中村家一族の守り本尊として寛永七年(1630年)尊栄によって創建された。
その後、
貞享元年(1684年)照円によって再建されている。
元々は旧水戸街道沿い、
不動橋近くの田圃の中にあったそうだ。
それが寛永七年に岡堰が出来て水路を通した時に低地となった為、
水害の難逃れよりこの地に移転したらしい。
境内
小文間西方の道路より、
一段高い境内に通じる石段脇には新四國五拾四番の札所塔。
石段を上がって行くと、
境内。
参道右には、
大師道道標。
麹町區富士見町、
とあるが全部は読めない。
そんなに古くなく、
大正二年(1913年)のもの。
明治三十五年(1902年)、
土砂加持記念碑。
土砂加持は、
土砂による祈祷のこと。
密教では土砂に向って光明真言を誦してこれを病人に授けて苦悩を除かせたり、
死体や墓にまいて亡者の罪を滅ぼさせるというもののようだ。
その先には、
手水舎。
手水鉢は、
宝暦三年(1753年)のもの。
手水舎の柱には、
昭和二年(1927年)の不動明王像。
参道左手には、
大正十五年(1926年)石坂改築記念碑。
中村熊次郎君寿蔵碑とあるが、
中村家の1人なんだろう。
更に、
灯籠。
明治四十年(1907年)、
大護摩修行記念碑。
明治三十四年(1901年)、
蚕霊供養塔。
明治三年(1900年)、
蚕影山神社碑。
正面不動堂前にも、
いろいろとある。
1番右の下にある石祠は、
裏側を見るとわかる。
享保九年(1724年)の弁財天で、
その左のものは不明。
奥の石灯籠は、
元治元年(1864年)のもの。
左の石碑の裏側はこんな感じで、
大正十四年(1925年)の日本神社仏閣参拝塔。
石灯籠脇の奉納柱は、
明和四年(1767年)のもの。
これは、
制多迦童子像か?
大正十四年(1925年)、
歌碑。
不動堂
不動堂の中を見てみると、
こんな感じ。
奥に見えるのは、
もちろん不動明王像。
伝慈覚大師一刀三礼の作、
といわれている。
麻疹不動として崇敬を集め、
遠方からの参詣者も多かったと伝えられている。
欄間には、
彫刻や絵馬などが飾られている。
54番
54番の大師堂は、
こんな感じ。
中には、
もちろん大師像。
札所額と御詠歌額も、
一緒に。
というわけで…
今回の新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリングは、
取手市小文間地区から。
今回は新四国相馬霊場八十八ヶ所、
第54番札所 小文間 大聖寺を訪ねた。
中村家一族の守り本尊として、
寛永七年(1630年)尊栄によって創建されたので関連石碑が多い。
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