平塚鳥見神社と向台庚申塚と滝田家住宅と向台薬師堂東葛印旛大師第25番ポタリング

向台薬師堂東葛印旛大師第25番

平塚地区
  向台薬師堂 25番札所
  ②延命寺 65・84番札所
  ③東区集会所 52番札所
  ☆中台堂 掛所
  ☆西区集会所 掛所

今回も白井地域
平塚地区の3回目で最後向台薬師堂25番札所

その前に、
寄り道で平塚鳥見神社

平塚鳥見神社

平塚地区鳥見神社

平塚鳥見神社は、
延命寺のすぐ近くにある。

平塚地区鳥見神社

白井市指定有形文化財(建造物)

平塚鳥見神社本殿(附) 棟札

所在地 平塚字北口九六二番地
管理者 宗教法人鳥見神社
指定年月日 平成二八年三月二十三日

平塚地区に所在する鳥見神社は、
創建は不詳で、
祭神に饒速日命を祀ります。
拝殿の奥に木造の玉垣を廻した本殿があります。
この本殿は天保五年(一八三四年)九月に建立されたもので、
大工は葛飾郡北方村(現市川市)与右衛門と平塚村半四郎、
木挽は平塚村新兵衛です。
ケヤキ材による木造の一間社流造の本殿で、
屋根は銅板葺です。
身舎四周に廻縁を廻し、
高欄をつけます。
背面柱筋には脇障子を立てます。
木階は五級で登り高欄を付け、
木階下には浜縁を設けます。
正面柱間寸法は6尺で、市内の神社本殿の中でも大きなものです。
本殿は随所に彫刻が施されています。
柱頭部には唐獅子や獏の木鼻を付け、
正面扉脇の小脇板には昇龍・降龍が、
木階下羽目板には飛龍が、
庇の下の幕板にも龍が彫られています。
また本殿側面には雉や鳳凰が彫刻されるほか、
脇障子には鶯の彫刻を嵌め込みます。
このような数多くの彫刻で飾られた壮麗な本殿は、
江戸時代後末期の神社建築の装飾的な特徴をよく現すものです。
平塚鳥見神社本殿は江戸時代に火事に遭い再建されたもので、
天保二年(一八三一年)に作成された木挽任用帳や、
建立時の天保五年の棟札が残されています。
本神社本殿は白井市内の江戸時代後末期に建立された、
彫刻で飾られた神社本殿の中でも規模の大きなものの一つであり、
本社建立時の過程を追うことのできる白井の歴史上価値の高いものです。
本殿と併せて、
その歴史的価値を裏付ける資料である天保五年の棟札一枚を附指定としました。

平成二十八年六月七日
白井市教育委員会

平塚鳥見神社本殿(附) 棟札説明板

鳥居左手前の小高くなっているところには、
手水舎不明の石祠が祀られている。

大正三年(1914年)狛犬に昭和十年(1935年)灯明台
文政八年(1825年)石灯籠

参道左には、
いくつもの大々御神楽奉奏記念碑

新四國三十三番の石標があったが、
平塚村大師のものだろうか?

平塚地区鳥見神社

他にも線彫弘法大師像新四國の標石やまだ新しいものなどが、
境内にはあった。

参道右手には、
境内社の八坂神社

平塚地区鳥見神社

あとは、
不明の石祠などがあちこちに。

正面拝殿の奥には、
拝殿とは繋がっていない本殿

平塚地区鳥見神社

この本殿の彫刻は、
思いもかけずなかなか素晴らしかった。

平塚地区鳥見神社

向台庚申塚

向台庚申塚

向台薬師堂に向かう途中に、
庚申塚がある。

向台庚申塚

左から天保十年(1839年)文字庚申塔万延元年(1860年)文字青面金剛王塔
文政九年(1826年)青面金剛王塔

明治十三年(1880年)自然石型文字庚申塔に、
文久三年(1863年)文政十一年(1826年)二十三夜塔

向台庚申塚

塚の脇には、
明治三十五年(1920年)線彫弘法大師像が上にある新四国八十一番の標石

向台庚申塚

近くには、
明和八年(1771年)道祖神

向台薬師堂

平塚地区向台薬師堂

さて、
向台薬師堂

平塚地区向台薬師堂

十九夜塔・子安塔が、
道路を向いて佇んでいる。

寛政六年(1794年)と、
寛延四年(1751年)十九夜塔如意輪観音像

平塚地区向台薬師堂

文政七年(1824年)の十九夜塔如意輪観音像と、
大正十三年(1926年)の子安塔

平塚地区向台薬師堂

明治二十九年(1896年)と、
天保十年(1839年)の子安塔

平塚地区向台薬師堂

右端の明治十三年(1880年)の子安塔
左にもう1基あるみたいだけど葉に隠れている。

平塚地区向台薬師堂

道路を挟んだ向かいには、
平塚村大師のものだろう明治八年(1875年)線彫弘法大師像の新四国八十八箇所第七十番がある。

平塚地区向台薬師堂

階段脇に標石があって、
新四國八十八と刻されているよう。

平塚地区向台薬師堂

大師堂前にある、
享保七年(1722年)の庚申地蔵

平塚地区向台薬師堂

左には、
昭和六十三年(1988年)のまだ時をさほど経ていない観音菩薩像子安塔

平塚地区向台薬師堂

大正六年(1917年)
新四國十九番の標石

平塚地区向台薬師堂

東葛印旛大師第25番

平塚地区向台薬師堂

それでここは、
東葛印旛大師第25番でもある。

平塚地区向台薬師堂

実際の四国八十八所霊場での第25番は、
津照寺

所在地:高知県室戸市室津町
創建年:(伝)大同2年(807年)
開基:(伝)空海(弘法大師)
山号:宝珠山
院号:真言院
寺号:津照寺
宗派:真言宗豊山派
本尊:虚空蔵菩薩
真言:おん かかかびさんまえい そわか
御詠歌:法の舟 入るか出づるか この津寺 迷ふ我身を のせてたまへや

滝田家住宅

平塚地区滝田家住宅

向台薬師堂から坂を下っていくと、
国指定重要文化財の古民家滝田家住宅がある。

平塚地区滝田家住宅

説明板を読むのが、
わかり易い。

国指定重要文化財(建造物)
滝田家住宅
指定年月日 昭和四十四年六月二十日
白石指定有形文化財(考古資料)
滝田家の常滑壺
指定年月日平成二十四年三月二十七日
所在地 白井市平塚字舟戸五〇三番地
所有者 滝田新太郎

滝田家住宅は桁行九間(十七・三m)、梁間五間(十・四m)の規模を有し、
寄棟造、茅葺屋根が特徴的な古民家です。
構造は四方下屋造りで、
扠首組の棟束を立てています。
軒廻りには出桁をまわして「せがい造」とします。
これは十八世紀後半に式台玄関を付けた際に改造されたものとみられます。
建築された年代を示す文字資料は発見されていませんが、
建築手法や各種資料からみて十七世紀中頃から後半に建てられたとも推定されています。
滝田家は江戸時代以来当地に居住を続ける、
手賀沼の水運にも縁の深い旧家で、
滝田家住宅はこの地に建てられてから三〇〇以上の年月が経過しており、
千葉県下の上層階級の古民家の典型として重要なものです。
滝田家の常滑壺は鎌倉時代後期の資料で、
当地で活躍した有力者の骨蔵品として使用された、
玉縁口縁の壺です。
肩部には刻文が入っており、
刻文の入った同型完成の常滑壺の出土事例は周辺地域でも稀です。
市内に残る中世の文化財は少なく、
重要なものです。
※原則非公開

【注意事項】
滝田家住宅は現在も所有者の方がお住まいになられています。
滝田家住宅見学の際は外観のみの見学になります。
見学を希望される方は、
事前に白井市教育委員会までご連絡ください。

平成二十五年八月十三日
白井市教育委員会

滝田家住宅/滝田家常滑壺説明板

千葉県の房総の魅力500選にも、
この滝田家住宅は選ばれている。

平塚地区滝田家住宅

敷地内には、
国指定重要文化財の標石

平塚地区滝田家住宅

国指定重要文化財になった後、
昭和四十六年(1971年)の滝田家住宅説明板

平塚地区滝田家住宅

滝田家住宅
昭和四十四年六月二十日指定
国指定重要文化財

この住宅は約三百年前の建築で、
桁行十七・一メートル、梁間一〇・四メートルで寄棟づくり、
茅葺である。
床上では「ざしき」「かって」「なんど」「げんかん」「なかのま」「おく」と、
明治時代になってから新築された新座敷からなる。
「ざしき」「なかのま」は桁行がともに五・四メートルで広く、

この住宅は約三百年前の建築で、
桁行十七・一メートル、梁間一〇・四メートルで寄棟づくり、
茅葺である。
床上では「ざしき」「かって」「なんど」「げんかん」「なかのま」「おく」と、
明治時代になってから新築された新座敷からなる。
「ざしき」「なかのま」は桁行がともに五・四メートルで広く、
梁間も四・五メートルを二つ割に広い柱間をとる。
したがって「おく」脇には小部屋がつくられていて、
他に類型をみない平面形式をもっている。

昭和四十六年四月一日
白井市教育委員会

滝田家住宅説明板
平塚地区滝田家住宅

外観だけとはいえ、
一見の価値あり。

というわけで…

今回の東葛印旛大師88ポタリングは、
白井地域平塚地区の3回目の最終回。

平塚鳥見神社向台庚申塚東葛印旛大師第25番でもある向台薬師堂
そして国指定重要文化財になっている滝田家住宅をお届けしました。

平塚地区の後は、
同じく白井地域の今井地区へ。

東葛印旛大師第25番ポタリングMAP

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他の東葛印旛大師88ポタリングはこちらから

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