台宿 本多作左衛門重次墳墓
さて、
新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリング。
今回は、
取手市台宿地区から。
周辺スポットということで、
台宿 本多作左衛門重次墳墓。
説明板があるので、
読んでみよう。
茨城県指定史跡 昭和九年八月三日指定
本多作左衛門重次墳墓簡潔明瞭な手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙なかすな 馬肥やせ」という手紙は、
本多作左衛門重次が戦場から妻に宛てた手紙と言われている。
重次は、
徳川家康と祖父松平清康・父広忠の三代に仕えた武将である。
間違いに対しては主君家康に対しても激しく指摘するほど厳格で「鬼作左」と呼ばれる気性の激しい面もあったが、三河の国で奉行を務めたときには、
民衆に対して公平清廉で、
思いやり深かったため、
天野康景、
高力清長とともに三河三奉行と言われた。
後に、
重次は豊臣秀吉の怒りを買い、
家康に蟄居を命じられ、
ここ下総国井野村に移り、
慶長元年(一五九六)七月十六日、
六十八歳で亡くなり、
この地に埋葬された。
菩提寺の本願寺(取手市青柳)には、
重次のものと伝わる武具や、
家康からの拝領品が寺宝として伝わっている。平成二十七年六月
取手市教育委員会
本多作左衛門重次墳墓 説明板
秀吉の怒りを買ったというのは、
家康上洛の代わりに人質として差し出した大政所の屋敷の周囲に薪を積み上げいつでも火をつけられるようにしたという件だろう。
史蹟 本多作左衛門重次墳墓の石塔の隣には、
御墓山復興記念碑と本多重次三百五十年法要記念碑。
こちらは、
玉垣 文化十(1813年)癸酉年とある石塔。
その玉垣に囲まれて、
本多作左衛門重次墳墓がある。
中央が本多作左衛門重次のもので、
左が重次の弟である本多九蔵藤原重玄のもの。
そして、
右が重次の客人であった岡野彦五郎のもの。
というわけで…
今回の新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリングは、
取手市台宿地区から。
周辺スポットということで、
台宿本多作左衛門重次墳墓。
本多重次のことは知っていたが、
この場所に蟄居して晩年を過ごしたことは知らなかった。
まあ歴史上に人物は、
切り取られた時代のことしか知らないもんなあ。
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