★2022/12/13 中台家の長屋門 追加
箕輪地区
さて、
今回の東葛印旛大師88ポタリングは箕輪地区。
箕輪地区は我孫子側からだと、
手賀大橋を渡った先辺りになる。
一部が飛び地みたいになっていて、
少し離れた場所にも箕輪地区がある。
地図で示すと、
こういう感じ。
沼南の歴史をあるく24 かわうその碑
箕輪地区の東葛印旛大師は、
石尊社跡34番札所と如意寺15・59・81番札所の二ヵ所。
ただその前に、
恒例の寄り道。
最初は、
かわうその碑から。
ここには、
沼南の歴史をあるく24 かわうその碑の白い標柱がある。
この坂は通称「あいの坂」とよばれ、
沼南の歴史をあるく24 かわうその碑
松戸道と若白毛の追分にあたります。
この碑は、
箕輪の廣瀬左惣治が弟とかわうその供養に造立したものと伝えられており、
県内でも珍しい石塔です。
文化十四年(1817年)八月十三日建立のかわうその碑の正面には、
祭獺之制底と刻まれている。
祭獺は、
かわうそのこと。
逆から読むと、
日本酒の獺祭になるんだな。
制底は、
霊祠のこと。
なので、
これがかわうその供養塔ということがわかるのだ。
側面には右 松戸道 箕輪邑施主廣瀬佐惣治、
左 若志らが道と刻まれていて道標にもなっている。
この廣瀬家次男(佐惣治弟)が、
かわうそを眼の敵にして殺してしまい若くして亡くなってしまった。
それで、
廣瀬家ではこの供養塔を立てたということらしい。
動物の供養塔でもあり道標でもあるこの石碑、
全国的に実は珍しいものらしい。
それにしても、
今では信じ難いけれど昔々手賀沼にはかわうそが居たんだな。
いつぐらいまで存在していたんだろう?
もう戻ることはないだろうれどいつか戻ったら良いのになとは思う。
大師道道標
あいの坂を上ったところに、
大師道道標を発見した。
正面には、
大師道と刻まれている。
側面には、
明治四十二年(1909年)三月。
上には、
左右指差している手が刻まれている。
こんなところにあると見逃しそうになるが、
通り過ぎずに見つけられて良かった。
箕輪の香取神社
大師道道標からすぐのところに、
大正五年(1916年)の立派な石鳥居のある香取神社がある。
香取神社はもうそれはあちこちにあるけど、
これは箕輪地区の香取神社。
鳥居の左にあるお堂には、
天保十年(1839年)の待道大権現と刻まれた石祠が祀られている。
❓待道大権現❓
我孫子、柏、沼南、鎌ヶ谷、流山、野田、取手、松戸、
といった利根川流域に見られるもので、
子を産む年齢の女性たち信仰された安産祈願の女人講のこと。
鳥居前の御寶前と刻まれた石塔は、
寛政十年(1798年)のもの。
ここは、
元々東葛印旛大師文政期の59番だったらしいがその痕跡はない。
鳥居をくぐった先にある本殿は、
文化三年(1806年)年の再建。
黒塗板塀の玉垣が、
繞らされた中にある。
昭和八年(1933年)には、
従来の茅葺きの屋根を銅板に葺き替えたようだ。
小振りながら、
彫刻などがすぐ近くで見られるのが良い。
手前左には石塔や石祠がいろいろ集められていて、
まるで正面にある稲荷塔の参道のようだ。
ここには庚申塔に、
石祠。
山神塔に、
石祠に待二十三夜塔。
青面金剛像2基に、
庚申塔。
文字青面金剛が、
3基。
逆側には、
猿田彦大神に庚申幸神に御岳石尊大権現。
そんなわけで、
なかなか見応えのある場所だった。
香取神社向かいの庚申塔
香取神社から石尊社跡に向かう十字路の角、
お堂があって青面金剛像が祀られている。
他の青面金剛像とは、
明らかに違う感じで非常に特徴的で1度見たら忘れないだろう。
正徳2年(1712年)のもので、
右には奉造立庚申二世安樂祈所と読める。
❓二世安樂❓
現世(今生)と来世(後生)の両世において安楽を得ること。
石仏にはこの文字を刻むものが意外にある。
庶民が過去の世はともあれ、
この世にあって善を施すことにより、
あの世での幸せを願うという信仰心が、
造立供養にむすびついていった為と考えられる。
この一角には、
他にも昭和十年(1935年)の出羽三山碑。
明治九年(1876年)の常夜燈や、
更に石祠や手水鉢もある。
そして新四國三まで読める標石が、
割れて地面に転がっていたが詳細は不明である。
中台家の長屋門
そういえば、
箕輪地区にも立派な長屋門があった。
江戸時代は名主を務めていた、
中台家の長屋門だ。
中台家の中台正夫氏は、
風早町長から初代沼南町長を務めた方。
以前出てきた県営渡船中秋丸の中は、
この方の中。
東葛印旛大師第34番
ここからすぐのところにあるのが、
箕輪地区の東葛印旛大師の1つ石尊社跡の34番札所。
明治後半から100年以上続く、
高城煙火店の庭先みたいなところにある。
大師堂以外には、
特に何もない。
しいて言えば、
大師堂脇に力石っぽい楕円形の石があるくらい。
石尊社は、
明治の神仏分離期以降に消滅しているみたいだがここにあったわけではなさそうだ。
実際の四国八十八所霊場での第34番は、
安産祈願の寺である種間寺。
所在地:高知県高知市
創建:(伝)弘仁年間(810年 – 824年)
開祖:(伝)空海(弘法大師)
山号:本尾山
院号:朱雀院
寺号:種間寺
宗派:真言宗豊山派
本尊:薬師如来
真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
御詠歌:世の中に まける五穀の たねまでら 深き如来の 大悲なりけり
東福山如意寺
東葛印旛大師34番のすぐ先にあるのが、
東福山如意寺。
ここは、
東葛印旛大師第15・59・81番札所だ。
如意寺創建年代等は不詳、
永暦2年(1161年)創建とか元和6年(1620年)に法如が開山したとも伝えられる。
江戸時代末期には薬師堂や本堂が再建されたが、
明治20年(1887年)に火災により焼失してしまい本堂は明治23年(1890年)に再建。
東葛印旛大師第81番標石
山門の左に、
第81番標石がある。
側面には、
文化五戊辰年箕輪村如意寺。
文化五年辰年…
何かあったな…
ふと思い出したのが、
夏目漱石の夢十夜の第三夜。
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」
と思わず答えてしまった。「文化五年辰年だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、
今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、
この杉の根で、
一人の盲目を殺したという自覚が、
忽然として頭の中に起った。おれは人殺であったんだなと始めて気が附いた途端に、
夏目漱石 夢十夜 第三夜
脊中の子が急に石地蔵のように重くなった。
東葛印旛大師第59番
さて、
参道の右には第59番大師堂。
大師堂の右にある石塔は、
光明真言供養塔。
❓光明真言❓
不空大灌頂光真言という密教の真言。
23文字の短いお経。
おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まにはんどま
じんばら はらばりたや うん
大日如来さまにお願い致します
私たちの進む道を無量の光で遍く照らし出し
どうか成就するようお導き下さい
側面の世話人の名前には、
かわうその碑で出てきた廣瀬姓が何人か刻まれている。
実際の四国八十八所霊場第59番は、
聖武天皇が発した国分寺建立の詔により諸国に建てられた国分寺の一つ伊予国分寺。
所在地:愛媛県今治市国分
創建:天平勝宝8年(756年)以前
開基:(伝)行基
山号:金光山
院号:最勝院
寺号:伊予国分寺
宗派:真言律宗
本尊:薬師如来
真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
御詠歌:守護のため 建ててあがむる 国分寺 いよいよめぐむ 薬師なりけり
東葛印旛大師第81番
続いて、
第81番大師堂。
右脇の手水鉢は、
文政十三年(1830年)のもの。
ここにも、
箕輪村廣瀬姓が刻まれていて名前はかわうその碑と同じ。
実際の四国八十八所霊場第81番は、
四国で唯一の御陵である白峯陵が隣接する白峯寺。
所在地:香川県坂出市
創建:(伝)弘仁6年(815年)
開基:(伝)空海(弘法大師)、円珍(智証大師)
山号:綾松山
院号:洞林院
寺号:白峯寺
宗派:真言宗御室派
本尊:千手観音菩薩
真言:おん ばさら たらま きりく
御詠歌:霜さむく 露白妙の 寺のうち 御名をとなうる 法のこえごえ
東葛印旛大師第15番
81番の向いの参道の左に、
第15番大師堂。
実際の四国八十八所霊場での第15番は、
第59番と同じく聖武天皇が発した国分寺建立の詔により諸国に建てられた国分寺の一つ阿波国分寺。
所在地:徳島県徳島市国府町矢野
創建年:天平勝宝8年(756年)以前
開基:(伝)行基
山号:薬王山
院号:金色院
寺号:阿波国分寺
宗派:曹洞宗
本尊:薬師如来
真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
御詠歌:薄く濃く わけわけ色を 染めぬれば 流転生死の 秋のもみじ葉
というわけで…
今回の東葛印旛大師ポタリングは、
箕輪地区の石尊社跡34番札所と如意寺15・59・81番札所の二ヵ所。
寄り道で、
かわうその碑と鹿島神宮と向かいの庚申塔。
東葛印旛大師第34・15・59・81番ポタリングMAP
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