片山謎の大杉神社と北ノ作1・2号墳と手賀の丘公園石仏・石塔とヨタイ観音堂と南蔵院東葛印旛大師第72番ポタリング

東葛印旛大師第72番

片山地区

謎の大杉神社

片山地区は、
手賀地区の左側にある。

地図で示すと、
こんな感じ。

右端が兵主八幡両神社あたりまでで、
左端が手賀の丘公園あたりまで。

そんな片山地区には、
札所は1つ

片山地区
  ①南蔵院 72番札所

その前に、
寄り道から。

片山地区の謎の大杉神社

そんな片山地区に、
謎の大杉神社がある。

Google Mapには、
載っていない模様。

南蔵院から手賀沼の方へ下る坂道の右手に、
それはある。

謎の大杉神社

片山児童遊園の先の三叉路を右に行き、
次の三叉路の左の坂を下らず敢えて右に進み次の三叉路の左の坂を下るのだ。

謎の大杉神社

右手、
竹林の間に階段がある。

謎の大杉神社

お堂らしきものが見えるので、
上ってみる。

謎の大杉神社

すると階段途中の右側に、
標石を発見。

謎の大杉神社新四國標石

正面をよく見ると、
新四國四十四番と刻まれている。

謎の大杉神社新四國44番標石

もしかして、
例の謎の文化十酉年の新四國標石かと思って側面を見てみるとやはりそうだった。

謎の大杉神社新四國44番標石

もう片方には、
豫洲菅生山移大杉宮と刻まれている。

実際の四国八十八所霊場第44番の山号は、
菅生山だからこれは第44番で間違いないだろう。

謎の大杉神社

階段を上り切ると、
正面には覆殿に守られたお堂

謎の大杉神社

お堂を覗いてみると、
大杉神社とある。

詳細は、
全くもってわからないがそんなに古いものではなさそうだ。

謎の大杉神社

左手には、
手水鉢

謎の大杉神社

右手には石祠と、
と刻まれた石塔

謎の大杉神社

側面には、
安政三辰(1857年)四月吉日

謎の大杉神社

お堂の裏にも、
石祠

謎の大杉神社

ただどれも、
詳細は不明。

いずれにしても、
謎の場所で何もわからないのが残念だ。

沼南の歴史をあるく10 北ノ作1・2号墳

北ノ作1・2号墳

片山地区の左端にある手賀の丘公園には、
85基からなる片山古墳群と6基からなるオッコシ古墳群がある。

片山古墳群

それ以外の片山地区にある古墳が、
東葛地域では最も古い時期の古墳北ノ作1・2号墳

北ノ作1・2号墳

向かう途中にあったこの看板によれば、
ねこ・たぬき飛び出し注意らしい。

北ノ作1・2号墳

たぬきは見掛けなかったが、
確かに猫は何匹も見掛けた。

北ノ作1・2号墳

途中には、
更に石仏石塔があったが詳細は不明。

北ノ作1・2号墳

入口には、
沼南の歴史をあるく10の白い標柱

北ノ作古墳群・南蔵院、
平成二年沼南町教育委員会

側面に説明書きがあるかと思ったが、
特に何も書かれていない。

北ノ作1・2号墳

細い道があるので、
中に入って行く。

北ノ作1・2号墳

右手に説明板が見えるので、
そちらの方へ。

北ノ作1・2号墳

北ノ作1・2号墳
(県指定・史跡)

所在地 東葛飾郡沼南町片山115-1他
指定年月日 平成7年3月14日

両古墳は、
昭和30年代の手賀沼の干拓工事に先立ち早稲田大学が、
平成6年に県指定に伴い(財)千葉県文化財センターがそれぞれ調査を実施しています。

1号墳は、
昭和34年に調査され、
墳頂部の粘土槨とされる埋葬施設から、
直刀1、
ヤリガンナ1、
鉄鏃3、
鉄斧2、
銅鏃1、
土師器が発見されています。

そして、
平成6年の調査により、
古墳の形が突出部をもつ全長21.5m、
一辺15~16mの方墳であることが明らかになりました。

周溝墓から出土した土器には、
東海系の流れを含むものも見つかっています。

2号墳は、
昭和35年に調査され、
そして、
平成6年の調査では、
全長30mの前方後方墳であることが確認されました。

決して大型の古墳ではありませんが、
突出部を有する方墳とそれに続く時期の前方後方墳が2基並んでおり、
北総地域を代表する出現期(3世紀前半~4世紀後半)の古墳として重要です。

平成16年3月31日

柏市教育委員会・千葉県教育委員会

北ノ作1・2号墳 案内板
北ノ作1・2号墳

写真だと、
本当にわかりにくい。

北ノ作1・2号墳

けれど、
確かにそこにはこれがそうなんだろうなというものがあった。

沼南の歴史をあるく12 手賀の丘公園 の石仏や石塔など

手賀の丘公園鳥居と石祠

ちなみに手賀の丘公園には、
道沿いの森の中に入ると石仏石塔を見つけることができる。

坂を上がるところの右には、
不明の鳥居石祠

坂を上がる途中の右手には柵があるのだが、
時々途切れるところがある。

手賀の丘公園坂途中にある鳥居

そこを入って行くと、
鳥居が見える。

手賀の丘公園坂途中の森にある鳥居脇の石灯籠

脇には、
崩れてしまった台石に万人講と刻まれたかつては石灯籠だったものだろうか?

その先には、
御嶽山供觀社供養塔と刻まれた石塔。

手賀の丘公園坂途中の森にある御嶽神社碑

鳥居の正面の小高くなっているところには、
今にも倒れてきそうな明治十一年(1878年)御嶽神社碑

手賀の丘公園坂途中の森にある青面金剛塔

木祠が崩壊している傍には、
青面金剛石祠などが転がっているという無残な姿。

手賀の丘公園坂途中の森にある石祠

放置されたままの姿は、
やはり痛々しいものがある。

手賀の丘公園坂途中の森にある石碑

この少し先にも、
柵が途切れるところがある。

手賀の丘公園筆子塚

そこにあるのは、
台座に筆子中と書かれた筆子塚

公園正門手前の園内に入る道のところには、
沼南の歴史をあるく12 手賀の丘公園

沼南の歴史をあるく12手賀の丘公園

そのすぐ脇には、
手賀布瀬並ニ湖北取手道と刻まれた道標

手賀の丘公園道標

側面には→役場・柳戸・泉・柏道
←名内橋・白井道

他にも、
子安観世音と刻まれた文字子安観音

文字子安観音塔勢至菩薩塔

側面には、
松戸泉柳戸船橋鎌谷富塚

南無勢至菩薩と刻まれた勢至菩薩塔も、
側面には右ハ上柳戸道左ハ行徳道

勢至菩薩

阿弥陀三尊の右脇侍。

阿弥陀三尊は阿弥陀如来を中尊とし、

左右に左脇侍の観音菩薩と、

右脇侍の勢至菩薩を配する仏像安置形式の一つ。

知恵を持って遍く一切を照らし、

三途を離れしめて、

無上の力を得せしむ故、

大勢至と名づく、

火途・血途・刀途の三途、

迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って救い、

その亡者を仏道に引き入れ、

正しい行いをさせる菩薩。

道を行くと右手には、
出羽三山供養塔

出羽三山供養塔

手賀の丘公園庚申塔群

手賀の丘公園の正門を過ぎて更に先へ進み、
第3駐車場を突っ切り右に進むと右に入った道のところに庚申塔群がある。

手賀の丘公園庚申塔群

二列になっていて、
全部で16基。

手賀の丘公園庚申塔群

三猿と共に、
奉待庚申と刻まれている寛延元年(1748年)のもの。

二列目は左右共に、
正面には庚申塔と刻まれていて下には三猿

手賀の丘公園庚申塔群

左は元禄二年(1689年)奉造立庚申待為(?)二世安禾(?)
右は延宝三年(1675年)奉造立庚申待供養と読める。

二列目中央は、
正面に庚申塔と刻まれていて下には三猿

手賀の丘公園庚申塔群

寛政六年(1795年)
青面金剛王で下には三猿

二列目左は正面に庚申塔で下には三猿
右は青面金剛

手賀の丘公園庚申塔群

左は明和九年(1772年)庚申供養塔
右は宝暦八年(1757年)青面金剛像

手賀の丘公園庚申塔群

青面金剛像は当然邪鬼を踏みつけていて、
下には三猿

手賀の丘公園庚申塔群

二列目中央は、
寛政十二年(1800年)青面金剛王と刻まれ下には三猿

手賀の丘公園庚申塔群

青面金剛像がもうひとつ、
安永七年(1778)のもので邪鬼を踏みつけているが下に隠れているのか三猿は見えない。

手賀の丘公園庚申塔群

二列目中央に見えるのは、
正面に庚申塔と刻まれ下には三猿

森の中の道沿いあるので、
何も気にすることなくゆっくり見られて良い場所だった。

ヨタイ観音堂

ヨタイ観音堂

手賀の丘公園の坂を下って突き当りを右に行くと、
ヨタイ観音堂

その右に曲がるところには、
新しい勢至菩薩塔があった。

勢至菩薩塔

先へ進むと個人宅へ入って行く坂の右に階段があるが、
これがヨタイ観音堂への参道階段。

ヨタイ観音堂

西国33観音+花山法皇像34体あるところから、
ヨタイ観音といわれるようになったそうだ。

西国33観音

観音巡礼の1つ。

日本で最も歴史がある巡礼で、

近畿地方2府4県と、

岐阜県の三十三箇所の札所寺院と、

三箇所の番外寺院からなる。

花山法皇像

西国巡礼観音霊場巡りの始まりは、
花山天皇が西国各地の寺院を巡拝されたこと。

徳道上人が定めた三十三の観音霊場を、
再興するように託宣を授かったとされる。

階段上がり始めの右に、
新四國と刻まれた標石がある。

新四國のあとがわからないが、
次は十と読める。

側面には、
文化十酉年例の謎のものだ。

もう片側には、
豫〇観自と読める。

〇は州だろうし、
観自観自在寺だろうからこれは第40番だろう。

さて階段を上ると、
決して広くはないがきれいにされている場所に観音堂がある。

ヨタイ観音堂

まだ、
そんなに時を経ていない感じ。

ヨタイ観音堂

境内には、
いくつかの石塔が。

ヨタイ観音堂

左側が、
万延元年(1860年)出羽三山西国秩父坂東供養塔

出羽三山西国秩父坂東供養塔

いわゆる百番塔というもので、
これは、

出羽三山、

西国三十三箇所、

秩父三十四箇所、

坂東三十三箇所を巡った記念碑。

右側が、
大正三年(1914年)普門品講中造立故村田重左衛門之碑

普門品

法華経の第二十五章観世音菩薩普門品のことで、

観世音菩薩の衆生救済、

現世で苦しみ悩んでいるすべての者を救済し、

悟りへと導くことを説いている。

ちなみに村田重左衛門さんは、
この観音堂の施主のようだ。

ヨタイ観音堂

観音堂の左手には墓石だろう、
いずれにしても真新しい花が供えられている。

ヨタイ観音堂

観音堂の裏手には、
石祠

ヨタイ観音堂

拝殿には、
赤い額

ヨタイ観音堂

宝暦二壬申年(1752年)片山村
西國三拾三所心願成弁所とある。

また施主村田氏
ともある。

西国33観音巡拝記念に、
村田重左衛門さんがここを建てたんだろうか?

お堂の中を覗かせてもらったが、
ズラリと並んだ石造。

暗くてあまり良く見られなかったのが残念だが、
一般公開することはないのだろうか。

個人所有だから難しいかもしれないが、
1度は傍で見てみたい気がする。

南蔵院

南蔵院

さて、
東葛印旛大師だった。

片山地区長屋門

ヨタイ観音堂から南蔵院に向かう途中に、
長屋門を発見。

片山地区蔵

中には人が住まわれているようで、
も立派なものが脇に。

こういうのが途中にあるから、
自転車でゆったり走るのは面白い。

南蔵院

それで兵主八幡両神社を地図上手賀地区と考えると、
片山地区東葛印旛大師札所は一カ所だけだ。

それが真言宗豊山派寺院、
禅林山 南蔵院 慈恩寺にある第72番

ここの創建年代等は不詳だが、
鎌倉時代末期から南北朝頃のようだ。

南蔵院

本尊は、
大日如来(金剛界)

社殿の柱に、
それを示す木札がある。

南蔵院

手賀興福院の隠居寺だった、
と伝えられている。

南蔵院

すぐ近くにあるのが、
ベンチで一休みできる片山児童遊園

片山児童遊園

その隣には、
かつては片山給油所だった跡がある。

片山給油所

日本石油のコウモリ印と、
カルテックス社のロゴ

昔、
私有貨車のタンク車にこの2つのマークがあった気がする。

片山給油所

コウモリ印は、
日本の2文字を図案化したモノだったような。

片山児童遊園

片山児童遊園の一画には、
供養塔がいくつも置かれている。

新四國七十二番標石

こちら側から南蔵院に入るところには、
石柱門。

その先の左には、
新四國七十二番と彫られた標石

側面には讃州万陀羅寺
そして文化五戊辰五月片山村南藏院

南蔵院

その先のには、
木祠手水舎

南蔵院

右手の建物は、
手前が菅原道真を祭神とする天満宮になっている。

南蔵院

そして、
逆側が本尊として不動明王を祀る仏堂不動堂

南蔵院

実際に建物の中で、
この2つが分かれているかどうか?はわからない。

南蔵院

その先には、
南無大師遍照金剛などなどいろいろ。

昭和13年~昭和46年までの7基の弘法大師講供養塔(南無大師遍照金剛)

丸彫りの地蔵や、
十九夜像塔

南蔵院

十九夜文字塔に、
子安塔などなど。

南蔵院

あと面白いのは、
大師道道標

大使堂道標

真ん中には、
大師八十八ヶ所道

両側には東七十五番興福院
西七十二番南蔵院だろう。

興福院とこの南蔵院の間にあったものを、
ここに持って来たんだろうね。

南蔵院

あと気になったのが、
埋まってしまった3つの標石

何となく新の字があるような…
ということはあの謎の文化十酉年(1813年)標石なのかもしれない。

東葛印旛大師第72番

東葛印旛大師72番

それで実際の四国八十八所霊場第72番は、
西行法師も訪れた弘法大師の先祖を祀る曼荼羅寺

所在地:香川県善通寺市吉原町曼荼羅寺
創建:元徳元年(1329年)
開祖:天真乗運
山号:我拝師山
院号:延命院
寺号:曼荼羅寺
宗派:真言宗善通寺派
本尊:大日如来
真言:おん あびらうんけん ばざらだどばん
御詠歌:わずかにも 曼荼羅おがむ 人はただ ふたたび みたび かえらざらまし

というわけで…

今回の東葛印旛大師88ポタリングは、
片山地区にある南蔵院72番

それ以外に、
手賀の丘公園のいろいろヨタイ観音堂北ノ作1・2号墳

南蔵院

そうそう、
南蔵院と道を隔てた個人宅の建物がなかなかスゴイのでつい写真を撮ってしまった。

こんな発見も面白いわけで、
まだまだゆったり88巡りは続くのだ。

東葛印旛大師第72番ポタリングMAP

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他の東葛印旛大師88ポタリングはこちらから



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