従是子神道
新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリング、
今回は我孫子市寿地区から周辺スポット。
緑 大光寺 42番から150mくらいのところにあるのが、
寿 従是子神道道標。
戦前からあった寿交番が我孫子駅前交番に統合・廃止になって、
今では元寿交番は寿防犯ステーションになっている。
その敷地内にある道標は寛政元年(1789年)の建立で、
正面には従是子神道と刻まれている。
従是はこれよりと読むから、
ここから子の神に向かう道ということだろう。
子の神は、
もちろん新四国相馬霊場八十八ヶ所38・43番札所の寿 延寿院。
右側面には、
寛政元己酉四月吉日とある。
左側面は、
別當延寿院…と読める。
意外に背が高く、
刻まれた文字も力強くて立派なものだ。
水戸道中と我孫子宿の町並み
同じ敷地内には、
水戸道中と我孫子宿の町並みの説明板がある。
水戸道中と我孫子宿の町並み
江戸幕府は今から約四〇〇年前の江戸時代初めから、
江戸を中心とした陸上・水上交通網を整備しました。
江戸と水戸とを結ぶ「水戸道中」は水戸徳川家や常陸周辺の大名が江戸との往来に利用し、
東海道などの「五街道」に次いで重視されました。
水戸道中は奥州街道の千住宿から分岐し、
新宿(葛飾区)~松戸宿~小金宿~我孫子宿を結び、
江戸初期は布佐から竜ケ崎経由で水戸を目指していましたが、
天和2(一六八二)年には第一小学校入口交差点を北に進み、
取手宿を譬喩するルートに変更されたことが資料から判明しています。
江戸中期の宝暦八(一七五八)年に書かれた「土浦水戸道中絵図」の我孫子宿(吾孫子と表記)では、
カギの手状に曲がった道に沿って七〇軒ほど家並みが続き、
幕府や大名等の公用旅行者の宿泊所である「本陣」(小熊郷右衛門宅)が白い蔵を伴って建っている様子が描写されています(本陣は現在地の北約50㍍)。
また、
現在地付近には伝馬(馬・人足)と公用文書の輸送(継飛脚)を管轄する役所である「問屋場」が置かれていました。
本陣、問屋場ともどのような建物が建っていたのか不明ですが、
ここから約一キロ東にある旧村川別荘の母屋は、
本陣の離れを大正一〇(一九二一)年に解体移築したものと伝えられ、
当地角に立つ寛政元(一七八九)年の「子の神道標」と合わせて、
江戸時代の我孫子宿を偲ぶ数少ない資料となっています。平成二十四年三月 我孫子市教育委員会
水戸道中と我孫子宿の町並みの説明板
まあ、
今となっては面影は何もないに等しい。
というわけで…
今回の新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリングは、
寿地区にある従是子神道道標。
この道標から子の神大黒天延寿院へは、
1.1km。
自転車で、
5分くらいで到着する。
多くの参詣者で賑わっていたという子の神大黒天延寿院、
これだけ立派な道標があれば迷うこともなかっただろう。
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