大光寺周辺
新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリング、
今回は我孫子市緑地区から新四国相馬霊場八十八ヶ所第42番の大光寺。
道標などの石造物
南海山大光寺の門柱脇には、
道標などが並んでいる。
左から、
新四國四十二番の標石。
1度四國の下のところで2つに折れてしまったんだろう、
修復の後がある。
次は、
不可入産穢忌眠人とある。
お産で穢れた者と、
死者を出した家の者は入ってはならぬという禁忌の碑らしい。
そういったことが刻まれる時代が、
確かにあったということだ。
次は、
大師道の道標。
指差しの手が見えるが、
光寺と読めるので大光寺への道標っぽい。
そして、
鯖大師万人講とあるもの。
血脇守之助生家(「かど屋」)跡
この近くは、
血脇守之助生家(「かど屋」)跡だったようだ。
説明板があったので、
読んでみる。
血脇守之助生家(「かど屋」)跡
血脇守之助(一八七〇年~一九四七年)は、
江戸時代以来、
水戸街道の我孫子宿で旅館「かど屋」を営んでいた加藤家に生まれ、
長じて現在の白井市の血脇家を継ぎ、
血脇姓を名乗りました。
血脇は、
我孫子市尋常小学校で校長杉山英より漢字の教えを受け、
慶応義塾で英語を学んだあ後、
一度は英語教師になります。
しかし、
アメリカ帰りの医師から、
日本はアメリカに比べて歯科医の社会的地位が極めて低いという現状を聞き、
明治二六(一八九三)年、
東京の高山歯科医学院に入学、
歯科医師になりました。
明治三二(一八九九)年には高山歯科医学院を継承し、
後継となる歯科医の養成につとめました。
明治三九(一九〇六)年、
歯科医師法が成立し、
翌年に国の正規の学校として東京歯科医学専門学校(昭和二一年に東京歯科大学となる)の設置が認められました。
これは、
歯科医の社会的地位確立を各界に働きかけた血脇の長年の功績によるものです。
血脇の生まれた「かど屋」の詳しい様子はわかっていませんが、
我孫子宿のほぼ中央、
現在の都市計画道 手賀沼公園・久寺家線と国道三五六号線の交差点から大光寺参道にかけてありました。
国道北側の「角松旅館」は守之介の祖父、
栄助が買い取った旅館「松島屋」の流れを汲むものです。
血脇は我孫子を離れていましたが、
歯科医療の発展に尽くし、
多くの人々に慕われ、
昭和一五(一九四〇)年、
「血脇先生謝恩之碑」がこの地に建てられました。
石碑は後年、
道路拡張により手賀沼公園内に移設され、
現在でもその姿を見ることができます。
なお、
血脇を恩人と慕った人物に、
医師で世界的細菌学者の野口英世がいます。
明治二九(一八九六)年、
会津から血脇を頼って身一つで上京した野口を、
血脇は物心ともに後援しつづけ、
「野口の精神的な父は血脇である」と言われました。
(写真はいずれも東京医科歯科大学蔵)平成二七年三月 我孫子市教育委員会
血脇守之助生家(「かど屋」)跡 説明板
血脇守之助関連のものと言えば、
この場所から坂を下った手賀沼公園に血脇守之助先生謝恩の碑がある。
緑 大光寺
さて真言宗豊山派南海山不動院大光寺は、
ひかり幼稚園の中にある。
本来はひかり幼稚園が大光寺敷地内にある、
というのが正しいんだろうけど逆の感じで平日はちょっと入れない。
ちょっと入れないというのは、
入ってはいけないわけでもなさそうだけど何となく入り難い感じなのだ。
こういうケースは、
他にも出てくるかもしれない。
確かいくつか、
幼稚園内にお寺がある場所が他にもあったような気がするからだ。
まあ幼稚園が休みの時なら、
気兼ねなく入れるだろう。
但し、
ここは門を自ら開けて閉めてからお寺を訪ねるという感じ。
概要
それで南海山不動院大光寺、
その創建年代等は不詳。
ただ本土寺過去帳には、
八日大高寺(大光寺)延徳二(1490)庚戌五月アビコとあり室町時代には創建していたという。
境内
門の扉を自ら開けてお寺の境内に入るなんてなかなかないが、
ここはそういうシステム。
平日園児が駆け回っているのとは大違いで、
人影もなくとても静かだ。
入って左手には、
鐘楼。
旧鐘は昭和十七年(1942年)に戦具に供され、
今のものは昭和三十四年(1952年)のもののようだ。
正面の本堂は、
現在全く新たなものを建てている最中。
石造物
本堂の左脇を行くと、
そこにはあれこれある。
先ずは、
一ヶ所にいろいろと集められているものから。
三尊阿彌如来供養塔に五十万遍供養搭、
奥は我孫子小学校の初代の先生であった杉山英筆子搭と南海講記念碑。
ちなみに血脇守之介氏は、
杉山英先生の教え子だったようだ。
延宝九年(1681年)、
如意輪観音像。
この時代のものは、
なかなかお目に掛かれない。
そのお隣には、
如意輪観音十九夜塔。
これも結構古いもので、
寛文十三年(1673年)のもの。
かつてはここに存在していた百庚申の1つなのかもしれない、
文字庚申塔。
これは、
天保十五年(1844年)のもの。
隣には、
文字青面金剛塔。
奥には、
三尊阿彌陀如来供養塔。
隣は、
秩父坂東四國西國霊場巡拝記念碑。
文字青面金剛塔の隣は、
大師真言供養塔。
これは、
嘉永元年(1848年)のもの。
左に見えているのは、
弘法大師碑。
相馬霊場第四十二番、
為千百年御遠忌記念御堂再建とある。
弘法大師1100年御遠忌は昭和九年(1934年)だから、
その時のものなのか。
右奥に見えているのは、
明信講石碑。
左奥は、
昭和三十七年(1962年)の聖天堂再建碑。
天明八年(1788年)、
二十三夜搭勢至菩薩。
安永七年(1778年)の石塔は、
不明。
聖天堂鳥居周辺
石造物が集まっている一角の手前左手には、
鳥居がある。
この鳥居は、
明治四年(1871年)のもの。
鳥居脇には、
天保五年(1834年)の弘法大師一千恩忌搭。
鳥居と一千恩忌搭の間には、
安政三年(1856年)の手水鉢。
手水鉢の隣には、
新四國四十二番の標石。
他にも、
不明の石祠が倒れたものも含めていくつかある。
こちらは、
寛政十年(1798年)の敷石奉納塔で取手石工とある。
聖天堂
その先に見えるのが、
聖天堂。
狛犬が、
二対。
この聖天堂は、
文化七年(1810年)に再建されたもののようだ。
その後、
昭和三十七年(1962年)の大修築で今の姿になっている。
両側に建物があってかなり窮屈な感じだけれど、
彫刻がなかなか素晴らしい。
聖天堂手前の稲荷神社
聖天堂手前の右脇には、
朱色の鳥居がある。
その先には灯籠が二対あって、
奥は弘化二年(1845年)と天保十年代(1839-1844年)のもので台座には女人講中。
その奥には、
台座にやはり女人講中とあるお狐様。
そして、
稲荷社。
ここにも、
お狐様。
そんなに古いものではなさそうだけど、
立派なものだ。
祠の中を覗かせて頂くと、
こんな感じで古そうなお狐様が一対。
42番
弘法大師一千恩忌搭右手にあるお堂が、
新四国相馬霊場八十八ヶ所42番大師堂。
第四十二番の札は、
あまり見たことがないタイプ。
貼札御遠慮下さい、
というのも初めて見た。
お堂は、
なかなか立派なものだ。
中を覗かせて頂くと、
こんな感じで御詠歌額が左手に置かれている。
奥に弘法大師像があるのだが、
両脇にも何かあるが確認できず。
ということで…
今回の新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリングは、
我孫子市緑地区の札所。
新四国相馬霊場八十八ヶ所、
42番の真言宗豊山派南海山不動院大光寺。
ひかり幼稚園の敷地内にある感じだが、
本来ひかり幼稚園が大光寺敷地内にあるわけだけど逆の感じで平日はちょっと入れない。
百庚申があるみたいだが、
確認できなかった。
もしかすると、
整理されてなくなってしまったのかもしれない。
だとするとかなり残念な感じなわけだけど、
実際はどうなんだろう?
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