我孫子市 白山地区
新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリング、
今回は我孫子市白山地区から。
白山地区はこんなところ
我孫子市白山地区の地名の由来は、
ちょっとわからない。
我孫子駅がある本町地区と、
手賀沼公園や船戸の森のある我孫子新田の間にある地区
白山地区 MAP
地図だと、
こんな感じ。
そんな白山地区にあるのが、
新四国相馬霊場の59番興陽寺。
白山 興陽寺
概要
曹洞宗自性山興陽寺は、
室町時代最末期の草創という。
大凉玄樹大和尚(天正8年1580年寂)が開山となり創建、
開基は山高八右衛門(覚了院殿天室自性大居士、延宝5年1677年寂)だという。
入口
旧水戸街道から脇道に入ると、
興陽寺の入口があり興陽寺と自性山の石塔。
その前には、
安永五年(1776年)の新四國五十九番の標石。
入って左手には、
六地蔵。
昭和四十一年(1966年)再建の薬医門の右手前には、
安永六年(1777年)不詐竃酒入山門とある結界石。
境内
薬医門を抜けると、
正面には昭和十年(1935年)に再建された本堂。
その右に客殿、
更に庫裏と繋がっている。
左手には、
二宮金次郎像。
昔、
小学校にあったな。
その二宮金次郎像のところに、
一級基準点なるものがある。
基準点は地球上の位置や海面からの高さが正確に測定された、
電子基準点・三角点・水準点等から構成されて地図作成や各種測量の基準となるものらしい。
その先には、
手水舎。
文政元年(1818年)の手水鉢には、
當村薬師講中とある。
本堂前には、
拈華微笑(ねんげみしょう)説法群像。
拈華微笑は、
禅宗における禅の法脈を釈尊が摩訶迦葉に微妙の法門として付嘱したとする伝説のこと。
要するに、
禅宗の起源を説く寓話。
公案(禅宗における問答)の一つ、
でもある。
拈華微笑
拈華微笑とは、
拈華微笑説明板
今から二五〇〇年程昔釋尊が印度霊鷲山での説法の際、
一つの華を拈り大衆に示された事より始まる。
多くの人はそれがどのような意味を示すものなのか分からなかったが唯一摩訶迦葉尊者だけがその真意を悟り微笑み返した。
その時釋尊は「摩訶迦葉尊者に佛教の真理・道理・奥深い心の救いを授け継承者とする」と言われました。
ここより釋尊の正しい佛法は摩訶迦葉尊者に受けつがれ今日に至るまで面々と続いている。
この霊鷲山の故事「拈華微笑」の消息を再現し、
ここに建立するものである
手水舎の左手には、
薬師堂と2つのお堂。
薬師堂は、
昭和六十一年(1986年)の改築。
2つのお堂の内の左のものは、
天神社祠。
中には、
白木一木彫の天神坐像。
59番
その右にあるのが、
新四国相馬霊場八十八ヶ所59番の大師堂だ。
右脇には、
明治十三年(1880年)の八十八ヶ所と刻まれた灯籠。
大師堂は、
なかなか素敵なものだ。
珍しく、
色が豊富にある。
弘法大師像は年紀不明だが、
大正時代あたりのものか。
大正七年(1918年)に撮影された、
茶湯詣結願記念と書かれたの写真があった。
というわけで…
今回の新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリングは、
白山地区にある新四国相馬霊場59番。
室町時代最末期の草創、
曹洞宗自性山興陽寺。
石仏は全然ないけれど、
ここの大師堂はカラーな感じでなかなか良いものだった。
そういえば、
この興陽寺の横に稲荷神社があったな。
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