取手市取手地区
さて、
新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリング。
今回は、
取手市取手地区から。
取手地区は丁番を持つ取手一丁目から三丁目と、
丁番を持たない区域に分かれている。
丁番を持たない区域の殆どは、
利根川の河川敷と我孫子市側の飛地だ。
取手MAP
それで今回訪れるのは、
取手地区にある長禅寺 1・5・88番札所。
取手 長禅寺概要
境内にある、
長禅寺略歴に詳しく書かれている。
長禅寺略歴
長禅寺は、
大鹿山長禅寺と号し、
臨済宗妙心寺派の古刹で、
京都の妙心寺の末寺です。
本尊は延命地蔵尊です。
縁起によれば、
朱雀天皇の代の承平元年(九三一)に、
平将門が勅願所として創建したと伝えられます。
将門没後は「御厨三郎吉秀」という人物が、
密かに本尊を守り伝えてきたものの荒廃が甚だしかったと言われています。
承久元年(一二一九)には義門和尚を開祖として再興が計られ、
また「吉秀二十九代後胤織部時平」は、
文暦元年(一二三四)に将門の守本尊で安阿弥(快慶)の作と伝えられる十一面観音像を安置するために「四間四面御堂」を建立するとともに、
寺の再興を計ったとも伝えられています。
創建当時は旧大鹿村(現在の白山地区、取手競輪場近く)にありましたが、
江戸時代初めに水戸街道が整備されて取手宿が形成されると現在地へ移転しました。
慶安二年(一六四九)に三代将軍徳川家光から朱印地五石三斗を賜って以来、
代々の徳川将軍から朱印地を賜っています。
また長禅寺は、
観覚光音禅師が開基した新四国相馬霊場八十八ヶ所(現在の取手市・我孫子市・柏市にまたがる札所)の発願・結願寺でもあります。
弘法大師の縁日(毎月二十一日)には、
御大師様の信者を中心に多くの参詣人が訪れております。
利根川に面した高台に位置する長禅寺は、
風光明媚なところで、
取手八景や茨城百景のひとつにも数えられております。
昔より心ある善男善女によって親しまれ、
ささえられております。
この地に小林一茶の句碑や小川芋銭の碑、
開闡郷土碑、
とりで七福神の大黒天などがあります平成13年3月 長禅寺
長禅寺略歴 説明板
入口周辺
先ずは、
正面入り口周辺。
長禅寺の由来
長禅寺入口には、
長禅寺の由来の案内板がある。
こちらは境内の長禅寺略歴に比べると内容はあまりにもシンプルなんだけど、
一応こんな感じ。
長禅寺
Chozenji Temple長禅寺の由来
創建者は平将門と伝えられており、
長禅寺の由来 案内板
境内には県指定文化財の三世堂をはじめ、
小林一茶句碑、
小川芋銭景慕の碑などがある。
また、
新四国相馬霊場八十八ヶ所の総本地で、
一番、
五番、
八十八番の札所でもある。
茨城百景 長禅寺 石碑
横には、
茨城百景 長禅寺の石碑。
百景なんだから他に99のこういった石碑があるんだろうな、
いずれ…とはなかなかいかないだろうけど。
他にどんなところがあるんだろう?と思ったら、
こちらに載っていた。
ただ昭和二十五年(1950年)制定らしいから、
今はもう既に存在しないものもあるんだろう。
この石碑のある場所は、
長禅寺入口脇の大師公園。
取手ゆかりの人びと
ここにはもう1つ、
取手ゆかりの人びとの案内板がある。
本多重次に始まって平塚らいてうまで、
11名のことが書かれている。
取手ゆかりの人びと 取手市教育委員会 平成15年3月
本多重次
享禄2年(1529)〜慶長元年(1596)
徳川家康につかえ戦場で数々の功績をあげ、
三河三奉行の一人ともなる。
「仏高力、鬼作左、とちへんなしの天野康景」と呼ばれる。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ」の簡潔にして要領を得た手紙の作者。
晩年は取手ですごし井野で没する。
命日は7月16日。
墓の五輪塔は台宿にあり、
県の史跡に指定。
菩提寺は青柳の本願寺。
同寺には、
甲冑などの遺品も伝えられている。 (写真 本多裕江氏所蔵)小林一茶
宝暦13年(1763)〜文政10年(1827)
俳人。
長野県信濃町に生まれる。
15歳で江戸に出て、
俳人への道を歩む。
文化7年(1810)から14年(1817)にかけて、
9回守谷を訪ね、
西林寺に多く滞在し、
布川にも足を伸ばしている。
「下総の 四国廻りや 閑古鳥」は、
相馬霊場八十八箇所を詠んだ句で、
長禅寺境内に小川芋銭の筆になる句碑がたっている。
(写真 長野県信濃町一茶記念館所蔵)広瀬誠一郎
天保8年(1837)〜明治23年(1890)
下高井村の名主の家に生まれる。
初代の北相馬郡選出の茨城県会議員、
北相馬郡長となり、
治水事業や岡堰の改修に力をつくす。
製糸工場(共成社)を設立し、
第2回勧業博覧会に生糸を出品、
殖産興業の旗手となる。
明治20年(1887)には利根運河会社を設立。
利根川と江戸川を結ぶ利根運河を開削するが、
竣工式を目前にした3月18日に病没した。
墓は高源寺にある。
(写真 広瀬誠之氏所蔵)観覚光音禅師
宝永8年(1712)〜天明3年(1783)
長野県出身。
13歳の時に江戸に出て、
後に取手宿で商売をはじめる。
信仰心に厚く、
長禅寺住職の幻堂和尚と交友が深く、
観音堂(さざえ堂)の再興に力をつくす。
出家して光音と号し、
四国八十八箇所を巡り、
新四国相馬霊場八十八箇所を開く。
長禅寺には一番・五番・八十八番の札所があり、
市内には総計59ヶ所の札所がある。
命日は12月17日で、
死後五番札所に葬られた。沢近嶺
天明8年(1788)〜天保9年(1838)
本姓は谷沢、
家は取手宿内で食料雑貨を販売する商家で屋号は油屋。
代々与兵衛を称していた。
20歳の時、
江戸で国学者村田春海 の弟子となる。
後に取手宿にもどり、
家業を営みながら学問や和歌に励む。
天保8年(1837)の取手宿の大火事で、
書きためていた原稿や収集した蔵書をすべて焼失。
失意に沈むも唯一の著作「春夢独談」を執筆して、
翌年8月22日死去。
墓は念仏院にある。
江戸時代の取手が生んだ唯一孤高の学者・文化人。小川芋銭
慶応4年(1868)~昭和13年(1938)
日本画家。
牛久藩士の家に生まれる。
独特の画風で、
河童の画は特に有名。
宮崎仁十郎とは兄弟同様のつきあい。
仁十郎は「芋銭を囲む会」で、
芋銭を取手の人々に紹介する。
仁十郎は、
長禅寺境内に高村光太郎の筆になる「小川芋銭先生景墓碑」をたてる。
仁十郎の子の稔は、
光太郎の姪の春子と結婚している。菊池幽芳
明治3年(1870)~昭和22年(1947)
新聞小説・家庭小説の第一人者。
代表作には『己が罪』・『乳姉妹』がある。
茨城第一中学校(現水戸一高)を卒業後、
取手高等小学校で教員を勤める。
杉浦たまと相思相愛の後に婚約、
恵まれた結婚生活を送る。
大阪毎日新聞の記者となり大阪に赴任する前に、
二人は長禅寺の観音堂(さざえ堂)にのぼり、
雄大な利根川の流れを前にしばしの別れを惜しんだ。坂口安吾
明治39年(1906)~昭和30年(1955)
『堕落論』、
『白痴』などの作品で、
戦後の混乱期に生きた作家。
昭和14年(1939)5月から翌年1月までの約8ヶ月間取手に住む。
昭和13年(1938)に自身の半生を描いた『吹雪物語』を刊行、
不評のために絶望のふちにいた。
取手を題材とした作品がいくつか見られる。
なお安吾と深い親交があった劇作家・演出家の淀橋太郎 は、晩年を取手で過ごし、
ここで亡くなっている。正岡子規
慶応3年(1867)~明治35年(1902)
俳人・歌人。
俳句の革新運動をおこす。
『水戸紀行』に、
取手は東京を出てからは一番繁華な町で、
西洋風の家も見受けられると書かれている。
井野村普門院の住職福田昌健(号は井村)らを中心に結成された水月会の活動は、
子規の『墨汁一滴』や『ホトトギス』にも記されている。
この会には、
小川芋銭も加わっていた。
(写真 愛媛県松山市立子規記念博物館所蔵)高村光太郎
明治16年(1883)~昭和31年(1956)
父は明治彫刻界の巨匠、
高村光雲、
東京美術学校(現東京芸大)で学ぶ。
詩人として、
妻の智恵子との恋愛時代から結婚生活、
そして闘病生活を歌った『智恵子抄』は有名。
この智恵子の身のまわりの看護をしたのが、
姪の春子。
昭和20年(1945)、
春子は光太郎の紹介で取手の宮崎稔と結婚する。
稔の父仁十郎と光太郎は親しく交際しており、
光太郎は何度か取手を訪ねている。
「利根川の美しさは空間の美である」との名言を残している。
(写真 北川太一氏所蔵)平塚らいてう
取手ゆかりの人びと 案内板
明治19年(1886)~昭和46年(1971)
女性運動家。
明治44年(1911)に『青鞜』を発刊。
創刊の辞「元始女性は太陽であった」は大きな反響を呼ぶ。
『青鞜』の表紙を、
後に高村光太郎の妻となる長沼智恵子が描いている。
昭和17年(1942)から22年(1947)まで、
小文間の戸田井で生活。
言論統制・思想統制・物資や食料も不足する戦時生活であった。
運動の目的は戦後改革として実現したが、
終生女性運動と平和運動につくした。
(写真 大月書店所蔵)
我孫子ゆかりの人びとならよく知っているけど、
こちらは知らないことの方が多く勉強させていただきました。
入口~山門
さて、
正面の急な石段を上って行く。
途中石段右手に何やらいろいろと石造物が見えるんだけど、
草木に阻まれてよく読めないものも多数。
これはわからないが、
〇〇講とか信徒一同とかの文字。
狛犬がこんなところから睨みをきかせているのは、
ちょっと怖い。
徳大護摩講家内安全祈、
はわかる。
奉納遍礼相馬霊場、
とある。
順路参拝記念、
とある。
手前は名前がびっしり、
奥はわからないが東京とか萬吉とかは読める。
相馬霊場百人講巡拝までは、
わかる。
奉くらいしか、
わからない。
なんて見ながら上がっているうちに、
山門間近。
山門には、
大鹿山と書かれた扁額。
柱右には、
相馬霊場総本山。
柱左には、
長禅寺。
門の右脇には、
秩父坂東西國四國百八十八箇所移とある石塔。
側面には、
安永五年(1776年)丙申六月吉日。
もう片側には、
南無大師遍照金剛 願主 観覺光音とある。
この山門は、
鐘楼門になっていて鐘が覗いている。
程良く残った彩色が、
絶妙な山門だ。
山門周辺
山門を抜けると、
左手には六地蔵(写真では1番左が切れてしまっているけど)。
その先には、
手水舎。
手水鉢は、
まだ新しい。
山門抜けた右手の建物の柱には、
右に総拜堂・左に御母堂尊像の木札。
御母堂尊像が祀られている、
新四國相馬霊場八十八ヶ所 総拝堂ということか。
中を覗かせて頂くと、
こんな感じ。
一瞬ギョッとするけど、
弘法大師がイッパイ。
総拝堂だから、
まあ当たり前か。
よく見ると像には番号が刻まれているので、
ここだけで88ヶ所巡った御利益があるということなんだろう。
奥に弘法大師御母公霊堂とある扁額、
御母公は弘法大師の母ということか。
5番
総拝堂の先には、
新四国相馬霊場八十八ヶ所第5番札所がある。
元々この5番は、
他のお寺に予定されていたらしい。
ただ、
そのお寺には辞退されて開基できなかったようだ。
それで、
結局長禅寺で引き受けることになったらしい。
確かに、
最初の1番と最後の88番があるのはわからなくもない。
でも、
5番という中途半端なものがあるのは何となく違和感があるもんなあ。
大師堂周辺には、
新四國第五番大師堂再建記念碑とか。
新四國第五番、
札所塔とか。
待道社石祠とか、
不動明王像とか。
道造石記念碑とか、
弘法大師像とか。
石造物が、
あちこちに点在する。
88番
5番の左奥には、
88番。
本来は最後に巡る結願札所なんだろうけど、
そのあたりはあまり気にせずにいこう。
実際の四国の大師霊場の場合は、
結願札所88番は全札所の最後に巡らないと御朱印帳に結願印が押されないそうだ。
5番に比べると、
かなり立派なお堂だ。
光音霊堂
88番の手前には、
光音霊堂がある。
相馬霊場大本開基光音霊堂、
とある扁額。
中には、
観覺光音像。
このお堂は、
六角形になっている。
88番と光音堂周辺にも石造物はあるが、
やはり記念碑的なものばかりだ。
5・88番・光音堂左手の石造物
5(右奥)・88番(左奥)・光音堂(手前)は、
少し離れてみるとこんな配置。
これらの左手の方に、
石造物がいろいろ並んでいる。
地蔵〇〇長禅寺、
延宝元癸丑?…とあるお地蔵様。
1番左は、
慶応三年(1867年)のものだけど何だかわからない。
更に、
不明の2基。
正化五未年(1715年)?
〇龍大権現宮とあるような…
左は安産育児大師とあり、
真ん中は不明。
右は奉造立大日如来為二世安樂也開眼長禅寺、
元禄十三(1700年)庚辰天九月吉日とある。
大正三年(1914年)の馬頭観世音塔、
南無とか佛とかところどころしか読めない自然石型石碑。
不明のものが、
結構多い。
なので、
何だかもやもやする。
これは何かの記念碑、
だろう。
小川芋銭先生景墓碑と小川芋銭の筆による小林一茶の句碑
取手ゆかりの人びとにあった、
高村光太郎の筆になる小川芋銭先生景墓碑。
不執形図直入神 欽翁此意得尤親
雲山風月収襟裏 任手拈来一々真
これは、
妙心寺管長大休老師の七言絶句。
ちなみに、
同じ取手ゆかりの人びとにあった小林一茶の句碑はこちら。
この句碑は、
小川芋銭の筆によるもの。
下総の 四国廻りや 閑古鳥
閑古鳥は郭公のことで、
暇ということではない。
一茶の七番日記、
文化7年(1810年)4月の日記にこの句が書かれている。
寅刻雨、巳刻ヨリ晴 大南吹、水戸候牛久ヨリ若柴通小金泊とあり、
一茶は水戸から牛久宿・若柴宿を通って小金に泊まっている。
この時長禅寺にも立ち寄っているので、
ここで詠まれたものなのかもしれないということでの句碑なんだろう。
文殊堂
こちらは、
鎮守文殊堂。
扁額には、
鎮守 文殊堂。
お堂内は、
こんな感じ。
三世堂
文殊堂の左に見えるのが、
有名な三世堂。
案内板があるので、
読んでみる。
茨城県指定指定文化財
長禅寺三世堂
昭和五十六年二月三日 指定縁起によると、
織部時平公が、
文暦元年(一二三四)に平将門公以来の守本尊である十一面観世音菩薩像を安置するために観音堂を建立したことに始まります。
現在の建物は、
宝暦十三年(一七六三)に、
当時の長禅寺住職幻堂和尚によって建てられたものです。
外観は二層ですが、
内部は三層となっております。
一層には守本尊の十一面観世音像と坂東三十三ヶ所、
二層には秩父三十四ヶ所、
三層には西国三十三ヶ所の各観音霊場札所の本尊、
合計百体の観音像が安置されています。
お参りする人は入口でてを合わせ順路に沿って進めば、
途中で交差することなく一巡できるという、
『さざえ堂』形式になっております。
三世堂の名称は、
縁起に「過去現在未来之三千仏を安置して三世堂と号し候」とあるところに由来しております。
この三世堂は、
宝暦十三年に建築されたものとすれば、
さざえ堂形式の堂の中では、
現存する日本最古の建物となります。平成十三年三月
三世堂 案内板
長禅寺
取手市教育委員会
なるほど、
でも通常はこの中には入れないのが残念。
ただ年に1回だけ、
4月18日に特別拝観がある。
行った時の模様は、
こちらから。
ちなみに宝暦十三年に建築されたものとすれば最古となっているが、
実際は享和元年(1801年)に再建されたものらしい。
とはいえ、
一部に宝暦建立時の部材が使用されているようだ。
このさざえ堂形式のお堂は、
全国で5棟しか残っていない貴重なものらしい。
他のさざえ堂は?
というとこんな感じ。
・群馬県太田市の曹源寺
・埼玉県本庄市の成身院
・福島県会津若松市の旧正宗寺(国重要文化財)
・青森県弘前市の蘭庭院
一層は通常でも外から見ることができるが、
二・三層も見てみたいものだ。
1番
三世堂左には、
新四国相馬霊場八十八ヶ所第1番札所。
利根川七福神めぐり、
大黒天でもある。
ちなみに、
利根川七福神めぐりこんな感じ。
利根川七福神めぐり
昭和五十六年(1981年)、
に取手市内に創設。
市内7ヶ所の寺院に七福神が祀られている。
・光明寺(取手市桑原1133)…寿老人
・普門院(取手市井野994)…布袋尊
・明星院(取手市小文間3911)…恵比寿
・福永寺(取手市小文間4264)…毘沙門天
・東谷寺(取手市小文間5458)…弁財天
・念仏院(取手市東2-6-52)…福禄寿
・長禅寺(取手市取手2-9-1)…大黒天
それで1番の大師堂は、
霊山堂の扁額が。
これは弘法大師御遠忌千百年の時に奉納されたものだから、
昭和9年(1934年)のもの。
弘法大師像が、
2基。
中は、
こんな感じ。
こちらは、
札所塔。
こちらも、
札所塔。
その他あれこれ
元禄七(1694年)甲戌とある、
〇〇〇〇宮の石祠。
三世堂と霊山堂の間にある、
文政三年(1820年)の像。
こちらは、
寺務所。
こちらは、
本堂。
これらの建物の前には、
池がある。
清源亭の扁額のある、
休憩所。
大正六年(1917年)、
四國西國坂東秩父相馬霊場巡拝記念碑などなど。
いろいろあるので、
散策も楽しい。
というわけで…
今回の新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺のスポットポタリングは、
取手市取手地区。
新四国相馬霊1・5・88番と3つの札所がある、
承平元年(931年)に平将門が勅願所として創建したと伝えられる長禅寺 。
ここはやはり年に1回4月18日だけ特別拝観できる、
さざえ堂形式のお堂三世堂が有名なんだろうけど他にも見どころは満載。
ちなみにさざえ堂形式のお堂は、
全国で5棟しか残っていない貴重なものらしい。
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