布施地区 香取神社
新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリングは、
柏市布施地区から。
札所ではなくて、
周辺スポットということで布施 香取神社。
概要
創建年代等は、
不詳。
ただ、
隣接する善照寺が鎌倉時代末期創建なのでここも古くからの鎮座と考えられる。
御祭神は、
経津主命。
布施弁天は、
元々この香取神社の近くに建てられていたらしい。
鳥居~覆屋
神社の裏側が諏訪道で、
そこから神社に入る感じになっており正面の鳥居や石段はわからない。
こちらが、
正面の鳥居。
この鳥居は、
天保十一年(1840年)のもの。
鳥居の先に、
覆屋が見える。
鳥居の先の右には、
多分念佛講中とあった真ん中に卍のある手水鉢。
石段前には、
石祠がいくつかある。
左のものは正一位稲荷と読め、
真ん中のものは側面に寛政七年(1795年)とある。
右端は、
ちょっとわからず。
石段を上ると、
明治四十二年(1909年)の狛犬一対の先に覆屋。
覆屋は、
まだ新しい。
平成二十九年(2017年)、
大改修した時のものか。
本殿
安政三年(1856年)の本殿の彫刻が、
なかなか素晴らしい。
左側の胴羽目は、
司馬温公の瓶割り。
司馬温公の瓶割り
温公が友達と高価な水瓶の傍で遊んでいたところ、
一人がその水瓶の中に落ちて今にも溺れそうになる。
温公は友達を助けるために迷うことなく石で瓶を割って友達の命を救う。
それを聞いた父親は温公を叱るどころか褒め称え、
改めて命はどんな高価なものよりも大切だということを教えたという。
右の胴羽目は虎退治っぽい感じだけれど、
猪早太鵺退治かもしれない。
猪早太鵺退治
平安時代末期、
後白河天皇の先代である近衛天皇を夜な夜な悩ます細い不気味な鳴き声。
この鳴き声を毎晩・毎晩聞いて体調を崩した近衛天皇、
源雅頼の進言により源頼政に退治を命ずる。
頼政は郎党の猪早太を連れて退治に向かう。
夜中に御所の上空に現れた黒煙に向かい南無八幡大菩薩と唱え弓で矢を射たところ、
黒煙中に手ごたえがあり、
ドサッと落ちたところに猪早太が駆けつけ喉を刀で突き止めを刺す。
天皇は大層喜び獅子王という名刀を頼政に下賜された。
裏の胴羽目は、
黄石公と張良。
右下には、
東都彫師 石川三之介信光と銘が刻まれている。
黄石公と張良
若き日の前漢創始の功臣張良が或る日、
白髪の老人に5日後の夜明けに土橋の上に来れば兵法の秘巻を授けると言われる夢を見る。
約束の日に土橋へ行くと既に老人が来ていて、
人にものを教えて貰おうという弟子が先生より遅く来るとは何事だ、
もう5日経ったら出直して来いと言われてしまう。
再び約束の日、
やはり老人は既に来ており、
また張良を叱責しまた5日後に来いと言いつける。
張良は今度は遅れまいと考え前夜から老人を待ち受ける。
すると現れた老人は自分の靴をワザと脱ぎ捨てて、
張良に拾ってくれと言いつけます。
ムッとはしたが張良は嫌な顔もせず急いで川に飛び込む。
すると大蛇が現れ威嚇し靴を取られてしまう。
張良はすばやく太刀を抜き立ち向かい大蛇から靴を奪い返し老人に渡す。
老人は張良を褒め太公望の兵法書を授ける。
老人は任務を果し山へ帰って黄色い石となったので黄石公という。
龍はこれまた観音の化身で天に帰って守護神となったという。
張良は太公望を熟読しやがて劉邦の軍師として活躍することになる。
石造物
諏訪道に面して、
先ず4基。
文政三年(1820年)、
文字青面金剛塔。
三猿は、
ない。
寛政十一年(1799年)、
青面金剛塔。
六臂、
ショケラ持ち。
文政八年(1825年)、
文字青面金剛塔。
こちらは、
三猿あり。
天保三年(1832年)、
文字青面金剛塔。
こちらは、
三猿なし。
駐車場との境の柵のところにも、
青面金剛塔が並ぶ。
右から、
享保元年(1716)青面金剛塔。
ショケラ持ちで、
三猿は正面向きの菱形タイプ。
真ん中が、
享保六年(1721)青面金剛塔。
奉供養庚申待講中、
とある六臂合掌タイプ。
左が、
宝暦九年(1759)青面金剛塔。
これも、
六臂合掌タイプ。
その先には、
善光寺参拝記念碑。
3基の手前には、
西国四国秩父坂東供養塔。
他にも、
三峯 永代講創立五十五周年記念碑とか。
伊勢大神宮参拝記念、
とか。
大山阿夫利神社碑、
とか。
第六天石祠、
とか。
足尾山石祠、
とか。
不明の石祠、
とか。
まあいろいろとある。
というわけで…
今回の新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリングは、
柏市布施地区から。
札所ではなくて、
周辺スポットということで布施 香取神社。
こじんまりとしているが、
青面金剛塔が結構あったりする。
そして、
何よりも本殿の彫刻はなかなか素晴らしくこれは必見だ。
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