都部地区
さて、
新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリング。
今回は、
我孫子市都部地区から。
都部はこんなところ
都部は、
いちぶと読む。
岡発戸(おかほっと)もそうだったけれど、
知らない人は読めないかもしれない。
遥か昔は、
一部・壱分・市部・市府・市分などの漢字も充てられていたみたいだ。
古代日本の律令制の行政組織として国・郡・郷(里)があったが、
通常50戸で1郷(郷)を超える戸を余戸・余郷と言ったらしい。
地名は一の分ということで、
この郷から余った余戸・余郷のうち最初に分けた郷につけられたとする説が有力っぽい。
まあ、
こういうのにはいろいろな説があるからね。
正解は、
今となってはわかないだろう。
都部地区MAP
それでこの都部地区を地図で示すと、
こんな感じに湖北台を挟んで2つに分かれている。
分かれた南の方には、
谷津ミュージアムがある。
ミュージアムと言っても、
美術館ではない。
手賀沼沿いで最も谷津の地形と自然環境が残されている、
岡発戸・都部地区の谷津36.7haをまるごと保全。
かつての農村環境の復活を目指すところを、
谷津ミュージアムと呼んでいるのだ。
まあ、
それはさておき都部地区。
都部には札所は1つもないが、
周辺スポットということで都部 八坂神社。
新四国相馬霊場八十八ヶ所22番の白泉寺から、
自転車で2分くらいで着いてしまうのでついでに寄っておきたい。
都部 八坂神社
概要
都部 八坂神社、
創建は応永3年(1396)。
元々は、
牛頭天王(神仏習合の神で釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神)と称していたらしい。
御神体は、
明治九年(1876年)に中峠の伊勢山天照神社境内に遷座したという。
都部 八坂神社 成田街道からのアプローチ
成田街道からだと、
参道入口は狭い上に参道が長く曲がっているので神社があることに気付かないかもしれない。
都部 八坂神社と書かれた標柱が一応あるんだけど、
小さいので見逃しそう。
実際、
参道入口は民家との入口みたいだもんな。
とは言っても、
こんなに先の屋敷が見えない民家もそうはないだろうけど。
それでこの参道を行くと、
なかなか良い感じの木造両部鳥居が見えてくる。
ただ鳥居の先には、
民家があって社殿はない。
都部 八坂神社 裏道からのアプローチ
白泉寺から実際に自転車を漕いできた裏側の道から入ると、
狛犬の先に拝殿が正面に。
ここの明治十二年(1879年)の狛犬は、
鳥居同様に何だか良い感じの姿だ。
本殿は彫刻が少ない小ぶりのものだが、
これも良い感じ。
都部八坂神社石造物
境内には、
さまざまな石造物がある。
安政六年(1859年)、
手水鉢。
木造両部鳥居をくぐった右側には、
石造物がずらりと並んでいるんだけど結構剥離が進んでいる。
左から享和元年(1801年)の文字青面金剛尊、
文政元年(1818年)の像が剥落している青面金剛塔。
文政七年(1824年)の像が剥落している青面金剛塔、
東三社参拝記念碑。
続いて、
年不明の大聖菩薩と刻まれた青面金剛像塔はしっかりと残っている。
三猿が二重にあるんだけれど、
別の台座の上に置いたんだろうか?
これはかろうじて、
姿が残っている。
明和五年(1768年)、
文字青面金剛塔。
文政三年(1820年)の文字二十三夜塔と、
寛政九年(1797年)の像が剥落している勢至菩薩かな?
そして、
天保六年(1835年)の待道大権現石祠。
やはり玉垣に囲まれているスタイルで、
台座には女人講中の文字。
鳥居をくぐった先の奥の方には、
合肥された神々。
尾鑿山に、
一言主大神。
三峯山に、
不明の石祠に山神宮。
金華山参拝記念に弁財天2基、
不明の石祠に稲荷社。
富士浅間大神に、
灯籠の一部。
といった具合に並んでいるが、
面白いのは二重三猿の青面金剛像塔くらいか。
というわけで…
新四国相馬霊場八十八ヶ所と、
周辺スポットポタリング。
今回は、
22番札所岡発戸白泉寺と岡発戸八幡神社と待道社からは自転車で2分で着いてしまう神社。
2分とはいえ、
そこはもう岡発戸地区ではなく都部地区。
その都部地区にある、
八坂神社をお届けしました。
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