小文間 福永寺
新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリング、
今回は取手市小文間地区から。
第63番札所、
小文間 福永寺を訪ねる。
この海中山福永寺のことは、
本堂落慶記念碑に詳しい。
福永寺本堂落慶記念碑
福永寺は天長三年十月、
福永寺本堂落慶記念碑
寺宝毘沙門天の海中湧出を基源として建立された寺院であるが、
一度文久二年に消失し、
更に明治二十九年に再び火災に遭い、
その後永く仮屋の状態におかれて老朽も甚しく、
さきに開設した霊国経営とも相まって、
漸く檀徒の間に本堂建築の機運も興りつつあった。
時恰も弘法大師入定千百五十年御遠忌に当るを以って、
これが記念事業として山門修復と併せ施工することとし、
建築委員会を組織して広く浄財を求め、
昭和六十一年三月二十八日落慶を迎うるに至ったものである。
なお更に年を経て、
これが記念碑建立の議が興り、
新たに委員を設けて協議の結果、
本堂前の聖地を整い茲に記念碑を建立するものである。
勘右衛門坂の道標があるところから入ると、
先に本堂が見える。
中は、
こんな感じ。
本堂の右の方に客殿があって、
その隣に毘沙門堂がある。
中を覗かせて頂くと、
正面には毘沙門天像。
貞享四年(1687)運慶25代永陽四条堀河住 法橋福田康政喜兵衛兼永の作で、
桐の一本造りらしい。
左脇は、
こんな感じ。
右脇は、
こんな感じ。
建物の傍には、
とりで利根川七福神の毘沙門天の石像。
向かい側には、
貞享四年(1687年)に生き入定した定傳和尚のお墓がある。
周辺には、
石造物がいろいろ。
その奥は、
鐘楼。
客殿の正面側の霊園との境界手前には、
享保元年(1716年)の宝筺印塔。
宝筺印塔周辺は、
こんな感じ。
ぼけ封じ観音菩薩なんだろう、
幟がある。
大正十年(1925年)、
延命地蔵菩薩像などなど。
小文間 稲荷大明神
福永寺の南東に、
隣接して小文間 稲荷大明神がある。
鳥居手前には、
新四國六十二番の札所塔。
赤い鳥居に、
赤い木祠。
中は、
こんな感じ。
道を挟んだところには、
覆屋。
中には八幡宮とある、
元文四年(1739年)の石祠。
中妻貝塚
この辺りは、
貝殻がたくさんある。
貝塚跡なのかと思っていたら、
ちゃんと説明板が。
市指定史跡 中妻貝塚
中妻貝塚は、
小貝川から広がる沖積低地を望む標高約二十三メートルの台地上に位置します。
貝塚の規模は、
推定直径約百五十メートルの範囲におよび、
縄文時代後期から晩期にかけて形成された厚さ一=二メートの貝層からなる利根川流域最大の環状貝塚です。
中妻貝塚は、
古くからそのその存在を知られており、
大正三年(一九一四)の東京人類学会による遠足会と称された調査を始めとしてたびたび調査が実施され、
その都度大きな成果を上げました。
戦後すぐの昭和二十六年(一九五一)に戦前から日本に滞在していたオランダ人宣教師のジェラード・グロード氏が発掘調査したことは、
今でも地元の人に記憶されています。
取手市による発掘調査は、
A地点からG地点までの七地点を実施しており、
住居跡や貝玉製作跡など縄文時代の背勝がわかる貴重な史料が多数出土しています。
特に、
平成四年(一九九二)に実施したG地点の発掘調査では、
全国でも非常に珍しい百体を超える人骨が埋葬された集団埋葬墓が発掘されました。
この地域の縄文時代社会を理解するための代表的な遺跡である中妻貝塚を後世に残すために、
平成八年(一九九六)にG地点を、
平成十一年(一九九九)に福永寺境内の中の貝塚保存区域を市の指定史跡としました。取手教育委員会
市指定史跡 中妻貝塚 説明板
63番
さて、
63番の大師堂は本堂左にある。
中は、
こんな感じで大師像が縦列状態。
右には、
聖徳太子堂かな。
中は、
こんな感じ。
聖徳太子像が、
祀られている。
というわけで…
今回の新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺のスポットポタリングは、
取手市小文間地区。
第63番札所、
小文間 福永寺を訪ねた。
周辺には稲荷大明神や、
中妻貝塚跡が。
貞享四年(1687)運慶25代永陽四条堀河住 法橋福田康政喜兵衛兼永の作、
桐の一本造りの毘沙門天堂の毘沙門天は必見。
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