
平和の記念碑

手賀沼公園の中には『平和の記念碑』がある。

我孫子市は、核兵器の廃絶と恒久平和を願って、昭和60年(1985)12月に『平和都市宣言』を行っている。

その平和のシンボルとして、広島市から爆心地に旧市庁舎の側壁と敷石を我孫子市原爆被爆者の会が譲り受け、昭和61年(1986)8月に建立したものだ。

その後、平成17年(2005)からは広島に、平成2年(2009)からは長崎にも中学生を派遣して、原爆の悲惨さや平和の尊さを若い世代に知ってもらおうという取り組みもしている。

この記念碑のそばには『陽光桜』がある。

戦時中に青年学校で教鞭をとっていた高岡正明氏が開発した桜だ。

出征を見送った教え子たちの戦死を悼み、『平和の象徴のさくらを世界に広めることが人生最大の仕事』と、品種改良に20数年の情熱を捧げた方。
平和の灯

広島平和記念公園に『平和の灯』がある。この火を譲り受け、平成27(2015)年8月15日に、その年の広島派遣中学生の手によって『平和の記念碑』のところに『平和の灯』として点灯。

この灯は、地球上から核兵器がなくなるまで燃やし続けるというものだ。
平和の折り鶴

アビスタの入口を入ったところに常設展示されているのが平和の折り鶴『貞子鶴』だ。
これは広島平和記念公園にある『原爆の子の像』のモデルといわれる佐々木禎子さんが、生前に折った折り鶴だそうだ。
禎子さんは2歳の時に被爆もその後元気に成長。しかし9年後の昭和29年(1954)、小学校6年生の秋に突然病のきざしが現れ翌年2月に白血病と診断され入院。回復を願って包み紙などで鶴を折り続けたが、8か月の闘病生活の後、昭和30年(1955)10月25日に亡くなっている。
この死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め平和を築くための像をつくろうという運動が始まり、昭和33年(1958)全国からの募金で平和記念公園内に建立されたのが『原爆の子の像』。

この折り鶴は我孫子市の平和事業に共感した禎子さんのご家族の方から市に平成27年(2015)に寄贈されたもの。
というわけで…

手賀沼公園には、他にも広島市から被爆アオギリ2世、長崎市から被爆クスノキ2世の苗木を譲り受け、その年の長崎派遣中学生の手で植樹されたものもある。

そんな手賀沼公園の風景はいつも平和そのものだ。この平和が当たり前ではない日々があった。今だって平和なようで平和ではないのかもしれない。全く平和ではない場所や人も大勢いるだろう。

今日が命日のジョン・レノンはヨーコと共に『War is over if you want it.』と1971年に『Happy Xmas (War is Over)』で唄っていたけれど、あれから50年も過ぎようというのに、世界は全く平和になっていない。

核兵器が地球上から消える日はくるんだろうか?全ての人が本当に望めば実現するはずだけど、きっとどこかに望んでいない人たちがいるんだろう。
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