増尾地区
東葛印旛大師88ポタリング、
現在は旧柏地域。
その2回目は、
名戸ヶ谷地区に続いて増尾地区。
増尾地区は、
地図だとこんな感じで名戸ヶ谷地区のお隣。
この増尾地区には、
東葛印旛大師の札所が2つと掛所が1つある。
増尾地区
①萬福寺 53・67番札所
②少林寺 43番札所
☆山野辺大師堂 掛所
その前に、
ちょっと寄り道。
廣幡八幡宮周辺石像物
増尾地区廣幡八幡宮に行く途中、
ニッカウヰスキー柏工場のある十字路で見つけたのがコレ。
成田山月参講中と刻まれた左右には、
西すはみち・北かしは道。
右側面には、
南松戸道・江戸道。
左側面には、
東ふじごこ路道・ふなバし道・増尾村。
ここから、
増尾地区廣幡八幡宮に向かう道の脇にはコレ。
説明板にあるように、
弘化四年(1847年)の道六神(道祖神)。
更に先に進んだ十字路の右には、
コレ。
左が山王権現の石祠で、
右が征清軍馬紀念碑(軍用動物を慰霊し記念するための碑)。
道を挟んだ逆側には、
弘化二年(1845年)の二十三夜塔があったのだが見落としてしまった。
道六神の説明板に、
ちゃんとここにありますよと▲印があったことに写真を見てから気付いた。
廣幡八幡宮
廣幡八幡宮の創建は、
宇多天皇(在位887年9月17日〈仁和3年8月26日〉- 897年8月4日〈寛平9年7月3日〉)の御代の頃。
下総国第一鎮守宇多天皇勅願所として鎮座された、
と伝えられている。
建久四年(1193年)に、
柏市近郊一帯の総鎮守(守護神)として再び社殿が創建。
慶安三年(1649年)には、
徳川幕府三代将軍家光公より御朱印地(領地)十石を献上されている。
この御朱印神社は、
柏市内では以前出てきた神明社とここだけみたいだ。
神明社の鳥居もそうだったが、
宝暦七年(1758年)に伯州刺吏藤原正珍公が旧領采地・病気平癒の御札として石華表(石鳥居)一基を寄進している。
この鳥居は、
本殿右の寄せ宮手前にある。
神明社のものと同じように、
こちらにも宝暦七年丁牛二月日 執政中太夫拾遺伯州刺史藤原正珍 依為旧領采地謹建焉と刻まれている。
ちなみに寄せ宮末社は、
右から厳島神社・三峯神社/稲荷神社・天神社/香取神社・鹿島神社/八坂神社・阿夫利神社/太子神社・清瀧神社となっている。
寄せ宮手前には、
大杉大神。
その手前には、
6基の石祠。
左から宝暦七年(1757年)の勢至菩薩塔・同年不明石祠に文化四年(1807年)疱瘡神、
文化六年(1809年)の待道権現に文化十四年(1817年)の不明石祠に昭和九年(1934年)の大塚大権現。
その手前には、
神輿庫。
それ以外には、
参道右手の富士塚に大正年間の小御岳神社碑・富士登山記念碑など。
あとは、
柏のむかしばなしがここにもあった。
むかしむかし、
増尾民話の里づくりプロジェクトチーム厄病おん出し
増尾(ますお)村でたくさんの病人が出たことがありました。
「うちのおっかぁは腰が痛くて畑仕事が出来なくなっちまった」
「うちの爺さまは寝込んだまま、起き上がることも出来ねぇだよ」
その頃のお百姓さんは家族総出で畑仕事をする慣わしになっていました。
そのため、
家に病人が出ると働き手が減ってしまって、
それはそれは大変なことだったのです。
村の長老が言いました。
「これはきっと厄病神(やくびょうがみ)の仕業だべ。村から厄病神を追い出すために鎮守(ちんじゅ)さまの神輿を出して村中を練り歩こう」
若い衆が集まり、
鎮守(ちんじゅ)様の神輿を担ぎだし、
病人のいる家々を順番に回っていき、
最後に大きな杉の木がある村はずれの三又のところまで練り歩きました。
するとどうでしょう、
不思議なことに病人たちは日に日に具合がよくなり、
とうとう村から病人がいなくなったのです。
それからというもの、大きな杉の木のある三又のところを「厄病(やくびょう)おん出し」と呼ぶようになりました。
という感じで、
なかなか盛り沢山なところだったがとにかく綺麗な神社。
廣幡八幡宮の右裏手には柏市指定文化財の宮根遺跡があったのだが、
完全に見落としてしまったのでいずれ再訪ですな。
増尾城址
もう1つの寄り道は、
増尾城址。
増尾城址総合公園(以前は増尾城址公園)内に、
それはある。
どんなお城があったのか?
については説明板に詳しい。
増尾城址
増尾城址公園の一角には、
増尾城址説明板
約500年前の戦国時代後半代の築造形態を残す中世城郭が所在します。
城跡の由来については、
当時の資料が残されていない今、
城主や築城の目的など詳しいことはわかりませんが、
大正11年刊行の「土村誌」には、
土地ではこの山を「城山」と呼んでいたこと、
同12年に編纂された「東葛飾郡誌」には、
戦国時代、
当地は、
小金領にあり小金城(松戸市)を本拠とする高城氏の家臣平川若狭守が城主であったと推測されています。
城跡は、
西側から東側へつきだし小規模な舌状の台地に立地し、
南側眼下には手賀沼に注ぐ大津川の分流が流れ、
北側から東側にかけてはゆるやかに下る谷とけわしい崖となり自然地形を取り込んでいます。台地郭面の標高は約20m、
河川低地面は約9mで、
高低差は約11mあります。
郭の構造は、
東西約130m、
南北45~100mで東西に長い三角形状の縄張構成となり、
台地東端の先端部に三角状の主郭(I)と台地西側の方形の副郭(Ⅱ)が連続して並びます。それぞれの郭は、
土塁、
横堀(空堀)、
切岸(崖)などの防御施設で取り囲まれ、
虎ロ(出入りロ)が2ヵ所設けられでいます。
郭内の土塁の高さは2.5~3mあります。
主郭と副郭の北西辺の槌塁がとぎれないこと、
南西隅に大規模な張り出し櫓があるところが特徴とされます。
城跡眼下の河川は分水嶺(郡境)とされ、
この南側一帯には、
鎌倉・南北朝時代に「相馬御厨」という伊勢神宮の荘園が置かれ、
『相馬文書』によると千葉氏庶流の相馬氏が代々土地を伝領したことが知られ、
増尾字本郷には相馬氏の守護神とされる妙見堂跡や相馬氏の居館とされる幸谷城館跡などが点在します。
フムフム、
妙見堂跡や相馬氏の居館とされる幸谷城館跡は今回はスルーしてしまったのが悔やまれるがやはりこの増尾地区はいずれ再訪なのだ。
増尾掛所山野辺大師堂
さて東葛印旛大師掛所である山野辺大師堂は、
県道51号線沿いをほんの少し脇に入ったところにある。
ここには大師堂以外は、
特に何もない。
東葛印旛大師43番増尾少林寺
掛所山野辺大師堂からすぐ近くにあるのが、
少林寺。
入口には、
謂れを記した立派な石碑。
並んであるのが、
正徳元年(1711年)の庚申塔。
中央には、
奉造立青面金剛尊像為二世安樂と刻まれている
手賀沼の水のほとりをさまよいつ芦刈る音をわがものとせし、
と刻まれている歌碑。
北原白秋二番目の夫人、
江口章子作のもの。
そして、
東葛印旛大師43番。
実際の四国八十八所霊場での第43番は、
明石寺。
所在地:愛媛県西予市
創建年:(伝)6世紀
開基:(伝)正澄上人
山号:源光山
院号:円手院
寺号:明石寺
宗派:天台寺門宗
本尊:千手観音菩薩
真言:おん ばざらたらま きりく そわか
御詠歌:聞くなら 千手の誓い ふしぎには 大盤石も かろくあげ石
増尾地区萬福寺
さてさて、
最後は増尾地区医王山安養院萬福寺。
ここは、
東葛印旛大師53・67番だ。
山門手前右には、
色々と並んでいる。
先ず、
どれも姿を殆ど留めていない。
右は三猿は残っている青面金剛塔だったのか?
真ん中は地蔵菩薩っぽい。
左は、
何となく赤ん坊を抱いている感じなので子安観音かもしれない。
その先には、
天和三年(1683年)の六地蔵。
こちらは古い割に、
キレイに残っている。
更に先にも墓標に混じって、
石仏が並んでいる。
右が延宝五年(1677年)の十九夜塔、
左が元禄十五年(1702年)の十九夜塔。
更に右が寛延三年(1750年)の地蔵菩薩、
左が安永八年(1779年)の十九夜塔。
あとは、
昭和四年(1929年)の馬頭観音。
山門手前左側には、
高野山 南無大師遍照金剛 四国八十八ヶ所巡拝記念を始めとした石碑。
それと、
土小学校のはじまりという説明板。
🔶土小学校のはじまり
江戸時代も末期になると、
市域にも学問に対する関心が高まり,、
村々には 庶民の教育機関として「寺小屋」が村の寺院などに開かれました。
寺子屋には、
6・7歳~12・13歳の子供達に読み・書き・算盤などを教えるもので、
当時、
市内では増尾村の万福寺を始め、
花野井や布施の寺院に置かれていました。
当時の月謝(授業料)は一人当たり金一銭および白米一升といわれています。
時代が変わり明治時代になると、
明治5年(1872)に「学制」が公布され、
「必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」という理念のもと、
広く庶民に教育の場が開かれましたが、
「土村誌」には、
同年、
早くもここ万福寺に「増尾学校」が開設されたことが記されており、
以後、
これに呼応するように他の村でも次々に学校が設置されます。
「明治5年、
増尾村万福寺ヲ仮校舎トシテ増尾学校ヲ創設シ、
児童ヲ収容シテ小学教育ヲシタ」(「土村誌」)
開校翌年の生徒数は48人、
教師1人であった増尾小学校は、
幾多の時代の変遷を経て、
現在、
柏市立土小学校として受け継がれています。平成23年3月31日 柏市教育委員会
土小学校のはじまり説明板
山門を抜けて左手には、
天保十三年(1842年)の手水舎。
右手には、
鐘楼。
正面には、
本堂。
本堂手前右には四国八十八ヶ所霊場、
御砂踏がある。
仏足石に足をそろえ、手を合わせて、「南無大師遍照金剛」とお唱え下さい。
とある。
境内には、
まあとにかくいろいろ。
白山大権現の、
石祠。
右手には、
阿弥陀堂がある。
阿弥陀堂の本尊である木造阿弥陀如来坐像は、
千葉県指定文化財になっている。
説明板が、
ある。
千葉県指定文化財(仏像)平成1年3月10日指定
🔶木造阿弥陀如来坐像
江戸時代の寛永2年(1625)の創建と伝えられるこの阿弥陀堂には、
本尊として木造阿弥陀如来坐像が祀られてきました。
阿弥陀如来は、
人々を西方極楽浄土へ導く仏様とされています。
本像は、
像高88.1cmの等身の坐像で、
左肩を覆い、
右肩に浅く懸かる大衣を着け、
両指で来迎印を結び、
右足を上にして結跏趺坐します。
カヤ材を用い、
頭・体幹部を通して堅一材より彫出し、
両脚部は横木一材、
体幹部で前後割り、
内部を刳りぬいて、
再び矧ぎ合わせる『一木割矧造(寄木造)』と称される方法で造られています。
定朝様式の穏やかな顔立ち、
全体的にゆるやかな面のとり方、
単純な衣文構成、
衲衣のひだの彫り、
膝前の形式化した処理などが特徴で、
裳先を亡失し、
肉髻珠や白毫などの小材が後補されている以外は原型を保っています。
像内の左腰脇辺の小補材からは「南相馬増尾万福寺時住澄照/南無阿弥陀仏」の陰刻銘が確認されています。
本像は、
そのやや質実な作風やヒノキ以外の用材を使用することから地方での製作になるものと考えられ、
平安時代後期(12世紀)の作と推定される貴重な例といえます。
なお阿弥陀堂は、
春と秋のお彼岸に開帳されます。用語解説
大衣:僧の着る三種の袈裟(けさ)の中で最も大きな袈裟
結跏趺坐:吉祥坐、蓮華坐ともいい悟りを開いた者の坐法
肉髻珠:頭部全面にある智恵の象徴とされる朱色の珠
白毫:眉間(みけん)にあるという白い巻き毛で光を放ち世界を照らす平成24年3月31日 柏市教育委員会
木造阿弥陀如来坐像説明板
東葛印旛大師53・67番
さて、
東葛印旛大師。
53と67番の大師堂は、
2つ並んで建っている。
手前が67番で、
奥が53番。
お堂の間にあるのが、
これ。
奥に写っているのは、
これ。
明治十四年(1881年)、
光明真言供養塔。
年不明、
聖徳太子塔。
文化二年(1805年)、
十九夜供養塔。
それで、
大師堂だった。
さて、
実際の四国八十八所霊場での53番は圓明寺。
所在地:愛媛県松山市和気町
創建年:(伝)天平勝宝元年(749年)
開基:(伝)行基
山号:須賀山
院号:正智院
寺号:圓明寺
宗派:真言宗智山派
本尊:阿弥陀如来
真言:おん あみりた ていぜい からうん
御詠歌:来迎の 弥陀の光の 圓明寺 照りそふ影は 夜な夜なの月
実際の四国八十八所霊場での67番は、
大興寺。
所在地:香川県三豊市
創建年:(伝)弘仁13年(822年)
開基:(伝)空海(弘法大師)
山号:小松尾山
院号:不動光院
寺号:大興寺
宗派:真言宗善通寺派
本尊:薬師如来
真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
御詠歌:植えおきし 小松尾寺を 眺むれば 法の教えの 風ぞふきぬる
というわけで…
今回の東葛印旛大師88ポタリングは、
旧柏地域2回目で増尾地区。
先ずは寄り道で廣幡八幡宮周辺石像物と廣幡八幡宮、
そして増尾城址。
東葛印旛大師掛所山野辺大師堂と、
少林寺43番と萬福寺53・67番をお届けしました。
見逃した場所も多々あった増尾地区、
そのうち再訪して追加していこうと思うけど結構な長さになってしまった。
東葛印旛大師第43・53・67ポタリングMAP
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