かつて手賀沼で運行していた県営の渡船『中秋丸』

中秋丸

▲ 手賀沼サイクリングロードの中秋丸説明パネル

手賀沼サイクリングロードを走っていると、道端に昔々手賀沼で運行していた県営の渡し船『中秋丸』の説明パネルがある。

▲ 説明パネルからの風景

手賀大橋の手前あたりで、気を付けていないと見過ごしてしまうが、そこがかつて風早村と我孫子町を結ぶ連絡船の船着場があった場所のようだ。

中秋丸就航以前

かつて沼沿いには、渡し場や江間と呼ばれる船溜が設けられていた。そこには笹の葉型の小型船サッパ船が係留されており水運に使われていた。

ただ小さな船だったので、当然天候に左右される。そして風雨による水難の危険とも常に隣り合わせだったようだ。

手賀沼沿いに住んでいた志賀直哉が書いた大正6年(1917)の中編小説、『和解』にも次のような文章がある。子供が急病で氷が必要になった場面だ。ここに出てくる沼は当然手賀沼のこと。

氷は菓子屋にもなかった。前日の嵐で沼向こうから来る筈のが来なかったから、今日は何処にもありますまいと云った。

やはり渡船は天候に左右されていたことが良くわかる。

悲しい歴史

▲ 手賀沼聖観世音菩薩と謂れ

そして、実際に何度も転覆事故の悲劇が起きている。

例えば、昭和17年(1942)9月21日には渡船が転覆し、手賀村片山(現柏市片山)の野菜行商人6人の犠牲者が出てしまう。

昭和19年(1944)には周辺の小学校の女子教員らを乗せた船が転覆し18人の犠牲者を出している。

もちろん船の転覆以外にも水難事故は発生する。

手賀沼フィッシングセンターには、明治以降だけでも200人以上の犠牲者を出してきたというこのような水難者の供養のために造立された観音像がある。

手賀沼にはそういった悲しい歴史もあるのだ。

水神宮

▲ 水神宮正面

ちなみにサイクリングロードの途中に90度曲がるカーブがあるのだが、そこりには水神を祀った祠がある。この日も水がお供えされていた。ちゃんと管理をする人がきっといるのだろう。

正面の黒い石には『明和二年二月吉日 建立 水神宮 平成十六年七月吉日』と彫られている。明和二年は1765年だから255年も前のことだが、平成になって再建されたものみたいだ。

▲水神宮側面

多分外側は当時からのもののようだ。微かに側面に『明和二年二月吉日』と彫られているのが読める。

中秋丸就航

戦後、行商などの人々が増加してくると、地元の人々は雨や風の日でも影響が少ない速くて丈夫なモーター船の就航を千葉県に陳情を続けた。

そしてついに手賀沼に初めての県営の動力による連絡船、中秋丸が昭和28年(1953)11月10日に就航した。

このモーター船の名前は、何ていうことはない、当時の風早村長中台正夫氏と我孫子町長秋谷好治氏の頭文字から『中秋丸』と名付けられたそうだ。

船の定員は30人ほどで自転車や荷物も運んだ。公営渡船なので運賃は無料だった。無料でしかも早くて天候の影響も少ないモーター船となれば、当然それまでのサッパ船の渡船に用はなくなる。

何か新しいものが登場すれば古いものは消えてなくなってしまうこともある。中秋丸の登場で、それまで多くの人々を運んでいた民間の渡船は消えていくことになる。

その後、中秋丸は11年間もの間、サッパ船に替わって人々を運び続けた。

手賀大橋開通

そして昭和39年(1964)7月、昭和37年(1962)に起工した待望の手賀大橋が開通する。橋は自分の足で渡れる。そうなればもう船は必要ではなくなる。

惜しまれた部分もあっただろうが、結局はかつてのサッパ船と同じように、中秋丸もその役目を終えて消えていくことになる。

もう1つの説明パネル

▲ 手賀沼公園の説明パネル

同じ中秋丸のもう1つの渡船場跡の説明パネルが手賀沼公園内にある。

当時の中秋丸を利用する、昔電車でよく見かけた行商の人たちなどの姿がそこにある。この頃はまだ手賀沼も水が澄んでいたんだろう。

便利になれば何かしらの犠牲も伴うということなのかもしれない。

中秋丸の説明板 - Google マイマップ
中秋丸の説明板

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