将門伝説の里 日秀
我孫子市に、
日秀という地区がある。
読み方はひびりなんだけど、
これはなかなか読めないのではないだろうか?
豊臣秀吉の姉である瑞龍院妙慧日秀尼のように、
にっしゅうと読んでしまうかもしれない。
さて、
この日秀は日出村(ひいでむら)とも呼ばれていたようだ。
これは平将門の遺臣である、
日出弾正が隠棲したことに因むという説がある。
ちなみに日出弾正は、
坂巻若狭守と共に手賀沼自然ふれあい緑道鼻喰い田の碑に出てくる人でもある。
日出村には他にもいくつかの説があって、
将門公の霊位が日の出を拝したからというものもある。
いずれにしても、
説であって実際のところはわからないようだ。
ただ、
日出村の方が古くて日秀の方が新しいというわけでもなさそうだ。
寛文12年(1672)の庚申塔には日出村の記載があって、
元禄5年(1692)には新木村から分村して日秀村になったという記述が後で出てくる湖北村誌にある。
でも、
将門神社境内にある元禄15年(1702)の水神祠には再び日出村の記載があるわけで要は混在しているのだ。
それで、
この日秀は将門公が幼少の頃にこの地で過ごしたという伝承もあるようだ。
他の地でもよくある、
桔梗の花は植えない・桔梗の柄の書かれた物は使用しないなど桔梗を忌避していたりもするらしい。
この桔梗を忌み嫌うのは、
愛妾桔梗御前の裏切りによって将門が討たれたという伝説にちなんだもの。
平将門には七人の影武者がいてなかなか見分けがつかなかったが、
桔梗御前が本物の将門公を敵方に教えたというやつだね。
平将門 七人の影武者伝説
将門公には七人の影武者がいた、
という伝承がある。
室町時代の俵藤太物語では将門と全く同じ姿の者が六人いたといわれており、
同じ時期の師門物語では同じ姿の武者が八騎いたとある。
伝説の背後には妙見信仰、
北斗七星・北極星を神格化した妙見菩薩を祀る信仰があると考えられる。
俵藤太物語の記述では、
桔梗御前が将門公の影武者は影が無いといい、
将門公の弱点はこめかみであることも教え、
藤原秀郷は将門公のこめかみを射て滅ぼすことに成功したという。
日秀はJR成田線の湖北駅から歩いて20分くらいのところにあるが、
湖北音頭にこのことが出てくる。
湖北日秀にゃ桔梗は咲かぬ
作詞:佐伯孝夫
桔梗仇花 嘘の花
将門さまのよ命とり
他にも、
将門の紋所九曜紋が胡瓜の輪切りに似ていることから胡瓜は輪切りにしないとか。
将門の調伏を祈願した成田不動には詣でないとか、
今もそうなのか?はわからないが関りはそれなりに残っている地なのだ。
それで今回は自転車でブラリ、
日秀にある日秀将門神社に行ってみた。
ちなみに、
同じ日秀にある観音寺境内にあるお地蔵様は成田山にそっぽを向いている。
相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)
自転車でのんびりと向かう途中で線路の脇を走っていると、
千葉県指定史跡相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)の説明板を発見した。
郡衙は奈良・平安時代の郡の中心の役所、
正倉は徴収した稲などの税を納めた倉庫群のこと。
ここは縄文・弥生時代・古墳・奈良・平安時代の複合遺跡で、
縄文時代2軒・弥生時代2軒・古墳時代188軒の住居跡・奈良時代以降の建物跡54棟が検出されたらしい。
県立湖北特別支援学校の敷地内にあるようだが、
校内には入れないし建物も結構建っているから保存の為ということで埋められてしまったのかもしれない。
この説明板の中で気になったのが、
タガネで半分に割られて地鎮に用いられたと考えられる和同開珎の銀銭が出土というところ。
ナゼ半分に割ったんだろう?
が気になる。
そして、
大量の炭化米が出土というところ。
これは、
貯蔵米の不正使用発覚を恐れた郡衙役人による放火事件で燃えたらしい。
各地の郡衙正倉遺跡で火災痕が確認されているみたいだが、
もしもそうだとしたらいつの時代もお偉いさんのお金に纏わる不正があるというわけだ。
ちなみに出土品は、
湖北郷土資料室(湖北行政サービスセンター2階)で展示されているみたい。
ここの開館は、
火曜・木曜日のみという見てほしさがあまりないような曜日設定となっている。
時間は、
午前9時から午後4時30分(入室は午後4時まで)。
入室の際は、
行政サービスセンター1階で受付手続きをするらしい。
日秀将門神社
さて相馬郡衙正倉跡がある県立湖北特別支援学校を過ぎ、
右に曲がって学校の脇を道なりに進んで行くと日秀将門神社に到着する。
国会国立図書館デジタルコレクションで
湖北村誌(コマ番号116/187)というのを見たらこうあった。
當社は日秀村産土にして、創立年代は明かならされ共、傳ふる處によれは
湖北村誌
天慶三年公の戦没するに遭ふや、其の遺臣等嘗て公が手賀村布瀬明神下より
手賀沼を騎馬にて乗り切り、湖畔の岡陵に登りて馬を繋き、旭日朝天を拜せ
し地域に於いて一宇を奉祠し、公の神霊を迎へしと云ふ。…
元々将門社と称していたようだが、
明治41年に近くの水神社を合祀し翌年許可を得て将門神社になったそうだ。
現在の本殿は小さな石殿だけど、
コマ番号110/187には茅葺の社殿の写真が載っていた。
まだ新しそうな社号標には、
当たり前だが将門神社とある。
余談だが、
右隣は将門公園。
車で来るようなら、
そこに駐車することができる。
社号標の先には、
現在は柱がコンクリートの根巻で補強された稲荷鳥居がある。
前出の湖北村誌に載っている茅葺の社殿の写真には、
こうある。
本社左側の鳥井ハ將門公登坂ノ遺跡
湖北村誌
ニシテ昔時ノ本社ハ此の前ニ在リ
要は、
鳥居は元々は将門公が渡ってきたという手賀沼方向を向いていたといわれているのだ。
鳥居の額束は石造、
平尊王 将門大朋神と刻字されている。
後ろには、
平氏の家紋である揚羽蝶が。
拝殿は平成28年に本殿前に建立されたらしいから、
まだ新しくて綺麗だ。
銅板葺・切妻屋根の土間拝殿で、
正面の桁には鳥居と同じように揚羽蝶の家紋。
この拝殿建立を機にフェンスが設置されたり、
参道に敷石が敷かれたり手水鉢も移設されるなど整備がされたらしい。
今も小さいながら、
きちんと手入れされた感じになっている。
拝殿の前には、
献上米としてイセヒカリが両側に置かれていた。
イセヒカリはコシヒカリの突然変異種と言われていて、
1989年に伊勢神宮の神田で発見されたものだ。
本殿は小さな石殿で、
茅葺の社殿は昭和30年に解体されて今の石殿になったようだ。
ポスト型の石の賽銭箱は、
他で見た憶えがないけどよくあるものなんだろうか?
まあ悪くはないけど、
情緒はない。
将門の井戸
そうそう将門神社の近くには、
将門の井戸というものがある。
湖北村誌には、
こうある。
中相馬七ヶ村には七つ井戸と稱して必ず一村一個有せり、
湖北村誌
之れを大日井戸と云ふ。
この井戸は、
承平2年(932年)に将門公が開いて軍用に供したと伝えられている。
明治の末頃までは、
こんこんと湧き出る清水を湛え手賀沼の低地へ落としていたという話もある。
だが今では井戸らしきものがある、
という感じなだけ。
それにしても、
案内の柱はもう少し何とかしたいところだけど…。
というわけで…
今回から始まった、
HistoryHopping。
第1回目は我孫子市日秀の将門神社を中心に、
ポタリングで訪ねたスポットをご紹介しました。
手賀沼を挟んで柏市にも将門公に纏わるスポットがいくつかあったな、
ということでもう少し平将門スポットは続く予定。
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