手賀沼古墳ポタリング…かつては日立精機工場にあった『日立精機2号墳』

日立精機他我孫子工場

我孫子駅に到着する少し前、車窓の左手には、かつて日立精機我孫子工場が見えていた。今でこそマンションが立ち並んでいるが、昔はフェンスの向こう側が工場だったことを覚えている。

日立精機はその名前に日立とあるように、昔は日立の子会社だったが、分離してグループにも属していなかった。過去形なのはもうこの会社はないからだ。バブルと共にはじけてしまったのだ。

昔々、線路沿いの道と工場との間のフェンスがあり、向こう側には古墳があったはずだ。電車から見たはずだ。子供の頃はこんなところに古墳があるなんて何だかスゴいなと思ったものだ。

果たして今はどうなっているのかと思い、向かってみることにする。

前回の香取神社古墳群からだったら、旧水戸街道に出て我孫子駅を目指す。

山一林組生糸工場

▲ 山一林組(石橋製糸)我孫子製糸所跡の説明パネル

駅に着く手前の公園でこんなものを見つけた。『山一林組(石橋製絲)我孫子製糸所跡』の説明パネルだ。

明治二十九年(1896)に常磐線が開通し、それから五年後の明治三十四年(1901)に成田線が開通したことで、我孫子は近隣の物資主産地となる。

それからしばらく経った1906年(明治39年)長野県岡谷市の製糸会社山一林組が進出し生糸工場が建った。明治時代の我孫子では唯一の近代的な生産工場であったところ。

最盛期には300人ほどの工員を抱え5,000貫もの生糸を生産していたが、昭和13年には石橋商店に引き継がれ、昭和60年まで操業は続けられたそうだ。

この工場は志賀直哉の小説、『和解』にも登場する。

▲ 蚕霊塔が唯一山一林組生糸工場の名残

近くに1925年(大正14年)建立の製糸発展のために犠牲になった蚕の霊を慰める~ 蚕霊供養塔『蚕霊塔』が残っていた。

日立精機2号墳

▲ 日立精機2号墳復元模型1/20

さて古墳だった。

▲ パネルの奥に前方後円墳

我孫子駅を通り更に先に行くと線路の下をくぐって向こう側に抜ける道。その左手にかつて電車から見ていた『日立精機2号墳』が保存されている公園がある。

▲ 方墳の方から

工場が撤退してマンションが建設される際、市と事業者との話し合いにより敷地内にちゃんと残されたのは本当に良かったと思う。

▲ 逆の円墳の方から

この古墳は7世紀前半の前方後円墳らしい。長さ30m、高さ2.5m、前方部幅21m、後円部径18mだから、水神山古墳に比べると半分以下の規模。

▲ やや全景

それでもちゃんと形が残っているし、フェンス側は少し窮屈そうだが、逆側はそんなこともなく、全体がきちんと感じられる。

▲ 日立精機2号墳復元模型

近くには解説パネルと共に復元模型もある。こういうものがあると、とてもわかりやすくて良い。

▲ 日立精機2号墳の解説パネル

ここは、中央付近に横穴式石室があって玄室の長さは2.25m、幅1.6m。縄文土器、土師器、須恵器が出土したみたいだ。現在は埋め戻されている。

▲ 側面

そういえば、他の古墳のものもそうだが、これら出土品はいったいどこに行ってしまったんだろう?

どこかで展示されていたりするのだろうか?今度調べてみようと思う。もしご存じの方がいらっしゃったらコメントで教えて下さったらありがたいです。

というわけで…

かなり久しぶりの再会だったが、子供の頃にスゴイなと思っていた古墳が、今もちゃんと残されていたのは本当に嬉しかった。

ところでこの古墳は『日立精機2号墳』だけど、『第1号』はどうしたのだろう?やはり消滅してしまったのだろうか?

調べてみると、日立精機1号墳は確かにあったようだ。しかも前方後方墳。この辺りは、それ以外にも線路を挟んだ第四小学校古墳、円墳1基(南飯塚古墳)の4基からなる古墳群だったらしい。

結局、今でも残っているのはこの『日立精機2号墳』だけ。

この後もずっと残ってくれると良いなと思いながら次の場所へと向かう。

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日立精機2号墳

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