勝矢堂
前回に続いて、
柏市の平将門スポット ポタリング。
龍光院と将門神社を後にして、
将門通りの坂を上っていく。
突き当たったところを、
右にハンドルを切って進んで行く。
突き当たる手前左には、
お堂や小さな五重塔などがある一角。
どうやら、
勝矢堂というらしいが詳しいことはわからない。
ただこの地区には、
勝矢の姓を名乗る家が多いらしい。
将門神社の石造物にも、
確か勝矢姓があったはずだ。
王城の地
再び手賀沼沿いの道路に戻って、
ペダルを漕いで進んでいく。
手賀沼自然ふれあい緑道で言えば黄金の亀の先、
展望台の少し手前の一般道に続く道の突き当り手前の坂道を上って三本目の脇道を曲がる。
すると民家の板塀に、
相馬小次郎 平将門 王城通りの案内版を発見。
進んで行くと、
左手に今度は王城の地の案内版が見える。
平将門王城の地
将門記の王城の地とは、此の地なり
平将門王城の地 案内版
将門記にいわく、「王城を下総の国の
亭南に建つべし」とあります。
この地より、眼下手賀沼を望めば
大井の津が一望でき、北に筑波山を
拝し西に富士山を奉拝し関八州を
手中にできます。
この地こそ王城建設にふさわしい
所であります。かつて奈良時代には
相馬郡に六郷がおかれました。
手賀沼南岸には、大井郷と古溝郷
(布瀬)がおかれ手賀沼北岸(我孫
子側)には、布佐郷、相馬郷、意部
郷、余部郷が置かれました。
又、同時代には、東海道が京の大津
から下総の国府を通り大井の舟渡より
布施に渡り戸頭に出て常陸の国石岡
まで整備されました。このように
都市機能が整った所に将門は
相馬の都を建てる事に決定しました。
案内板がなければ、
何もないただの空き地である。
まあこの案内板があってもなくても、
ただの空き地であることには変わりないのだけれど。
そもそも王城建設の議決がなされたのが天慶2年(939)12月19日、
翌天慶3年2月14日には新皇将門は討たれてしまう。
なのでここが王城の地だとしても、
王城の地にしようというだけのことで建てられる前に将門公は亡くなってしまったはずだ。
でも、
ここの景色は決して悪くはない。
案内板を過ぎてしばらく行くと右手に一応道があるので、
空き地を少しだけ進んで行くと将門山の案内板がある。
更に、
詳細も何もなくただ(津左エ門)本屋敷とある。
津左エ門とは?
わからない。
ところで、
平将門 王城の地と称する場所は他にもあるわけで。
例えば茨城県守谷市にある守谷城は、
将門公が築城したという伝承がある。
よって守谷が将門公の王城の地だ、
と言われてきたらしい。
いずれにしても、
今ではどこがそうなのか?はハッキリとしない。
だからこそ、
それぞれの場所でウチがそうなんですよ!と主張しても仕方がない。
何の根拠もなしに、
ただ主張しているわけでもないわけで。
ちなみに、
ナゼここが王城の地と言えるのか?
平将門の乱について、
現在に伝える唯一の史料将門記。
そこには将門公が下総国の亨南に王城を建設したことや、
大井津が京の大津になぞらえられたことが記されている。
それで、
この大井津が大井と考えられているみたいだ。
さしずめ、
手賀沼は琵琶湖になぞられているんだろう。
12世紀の軍記物語に、
保元物語がある。
そこには将門公が下総国相馬郡に都を建設、
自ら平親王と名のったと記述されている。
下総国の亭南が、
いつのまにか下総国相馬郡に変わっている。
この記述は、
14世紀半ばに編纂された神皇正統記や太平記にもあるらしい。
いずれにしても、
どこが王城の地なのか?は100%間違いないもないし100%正解も無いということなんだろう。
でもまあ、
こういうのは曖昧なままでもそれなりに楽しめるから良いのだ。
というわけで…
柏市の平将門スポット ポタリングの2回目は、
平将門 王城の地でした。
この地が本当にそうだったかもしれないし、
そうではないのかもしれない。
でも、
そうだったかもしれない可能性は無きにしも非ず。
それくらいで、
ちょうど良い。
秋晴れの中の、
あったかもしれない景色の中に身を置くことはなかなか気持ち良いものだった。
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