日秀 観音寺 29番

日秀 観音寺 首曲がり地蔵尊

日秀地区

今回の新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリングは、
我孫子市日秀地区から。

日秀地区はこんなところ

以前将門神社でも出てきた日秀は、
ひびりと読む。

これは、
ちょっと読めないかもしれない。

平将門公にまつわる地区、
といってよいだろう。

日秀MAP

日秀地区は、
地図だとこんな感じ。

今回はこの日秀地区にある、
29番札所観音寺

日秀 観音寺

日秀 観音寺

概要

曹洞宗 慈愍山 観音寺
草創年代等は不詳

ただ平将門公の守本尊であった行基菩薩作観世音像を将門神社近くの仏堂に安置
天台宗西林寺の徳道和尚を開祖として大悲山和泉寺と称していたという。

寛文二年(1662年)長安常久禅定門(日秀弾正友治?)が開基
正泉寺九世名翁全誉大和尚を開山として当地に移転し曹洞宗観音寺としたという。

首曲がり地蔵尊

交差点近くに覆い屋があり、
その中に子安地蔵が祀られている。

日秀 観音寺

これがいわゆる、
首曲がり地蔵尊

日秀 観音寺

首曲がり地蔵尊

いつ頃誰が建てたか不明ですが、
石質からすると江戸時代頃と推測されます。
右手に錫杖、左手には宝珠をもっています。
足元には赤子がまとわりついています。
最大の特教は首を傾けているところでしょう。
何とも不思泌なお姿ですが、
これには理由があります。
将門公ゆかりの地では成田山に参詣しないという伝承が多く残っていますが、
これは将門の乱の頃、
朝廷が将門鎮圧のため成田山に祈祷を依頼し、
その後将門が戦死したことによります。
このお地蔵様の立っている前の道路が旧成田街道で、
東へ進むと「成田山」に通じるのです。
成田山に敵意を表しそっぽを向いているという珍しいお地蔵様です。
しかし、
よく見るとお地蔵様の右目がつむっているようにも見えます。
また、
右を避けているようにも・・・。
将門公が弓で射られたのが右のこめかみといわれていますが、
なにか関係するのかもしれません・・・。
前に立つ童子は地蔵尊の脇待で、
右側の蓮華を持っているのが掌善童子で衆生の仏心を育てるといい、
左側の頭に手をかざしているのが掌悪童子で余剛書を持って煩悩を滅するといわれています。

観音寺 首曲がり地蔵尊 説明文

本堂

山門は脇の道を進むと右手にあり、
その先の本堂がある。

日秀 観音寺

観音堂

国道沿いから入ると、
右手に観音堂

日秀 観音寺

観音堂

平将門公の守り本尊と伝わる聖観世音菩薩をお祀りしています。
我孫子市日秀(ひびり)には「平将門伝承」が残っています。
観音寺の南方に「将門神社」「将門の井戸」があります。

伝承によると、
将門が幼少期にこの地で過ごしたという説、
手賀沼を南方より騎馬のまま渡り、
台地に登って朝日を拝したという説があり、
その拠点に「神社」と「仏堂」を建て観音像を祀ったといわれています。
その後寛文二年(1662)に現在の地にお堂が移され、
曹洞宗観音寺と伝えられます。
将門公への敬愛の思いは厚く、
タブーとされる事項がいくつかあります。
「成田参詣はしない」
「桔梗の花は植えない」
「桔梗の柄の書かれた物は使用しない」
「きゅうりを輪切りにしない」等…
なかでも成田山に関しては、
観音寺境内に建てられたお地蔵様はそっぽを向いています。
ただしこれらの禁忌はあくまでも伝承の中の事で、
お釈迦様から脈々と伝わる仏法の繋がりの中でお寺とお寺、
同じ人と人が睨み合い憎しみ合うことは本懐ではないと考えます。
怨親平等、
かつて歴史の中では戦った中でも共に生きる、
敵味方の恩讐を超え、
分け隔てなく平等に生きることこそ将門公の心に通ずるものと思います。
「観音様」は「観世音菩薩」(かんぜおん)ともいいます。
「世」の中の「音」を自在に「観」ていただける菩薩様。
「音」とは世の中の人々の苦しみの声、
救いを求める声のことで、
声に応じて救いを与えて下さる菩薩様です。

観音寺 観音堂 説明文
日秀 観音寺

この観音堂の向背虹梁の彫刻は、
なかなか素晴らしく見事なものだ。

日秀 観音寺

非常に、
見応えがある。

お堂の中を覗かせていただくと、
色の付いたこれまた素敵な彫刻がまたある。

本堂周りには、
こんな幟も。

石造物

塀の周りには、
いろいろと並んでいる。

敷地に入るとすぐ左に、
安政四年(1775年)新四國二十九番の標石

日秀 観音寺

側面には、
坂東十五番移となっているがこれは坂東三十三観音のことだろう。

日秀 観音寺

その横には、
明治十九年(1886年)の奉連読普門品五万巻供養塔

日秀 観音寺

右側には、
大正三年(1914年)の指差しの手のある新四國大師道の標石

日秀 観音寺

文久三年(1862年)
二十三夜塚と刻まれた二十三夜塔

日秀 観音寺

次が享和三年(1803年)
十九夜の文字がやたら大きな如意輪観音十九夜塔

日秀 観音寺

元禄十一年(1698年)
青面金剛明王と刻まれた三猿庚申塔

天保二年(1831年)
まさに文字庚申塔

日秀 観音寺

明治三十七年(1904年)
自然石型の文字庚申塔

日秀 観音寺

大正七年(1918年)
指差しの手がきれいに残っている鯖大師万人講の道標

日秀 観音寺

大正九年(1920年)
青面金剛尊と刻まれた三猿はいない文字庚申塔

v

観音堂正面の塀沿いにも、
いろいろとある。

安永八年(1779年)
二十六夜愛染明王文字塔

日秀 観音寺

正徳五年(1715年)
青面金剛塔

日秀 観音寺

享保十一年(1726年)
導師正泉…と刻まれている弐十三夜勢至菩薩塔

元文元年(1736年)
青面金剛像

日秀 観音寺

青面金剛大菩薩
と刻まれている。

宝暦九年(1759年)
青面金剛尊と刻まれている文字青面金剛塔

元禄九年(1696年)
如意輪観音十九夜塔

明治三十二年(1899年)
天満宮塔

日秀 観音寺

妙に新しくてこの並びにあるとやたら目立つというか浮いているという感じ、
待道大権現社

日秀 観音寺

これは、
破損した常夜燈の一部だろう。

日秀 観音寺

最後は、
善光寺参拝記念碑

日秀 観音寺

観音堂と塀沿いの石造物の間には、
手水鉢と灯籠

灯籠の奥に見えるのは、
薬師堂

中には中央に薬師如来
左右に日光菩薩月光菩薩で前列には十二神将

日秀 観音寺

29番

さて新四国相馬霊場八十八ヶ所29番の大師堂は、
観音堂右手にある。

日秀 観音寺

弘法大師像は、
三体も祀られている。

日秀 観音寺

個人の大師堂2

日秀 個人の大師堂

ちなみに、
この観音寺の道路を挟んだ向かいにも大師堂がある。

日秀 個人の大師堂

これも以前出てきたものと同じく、
個人が建てたものらしい。

というわけで…

新四国相馬霊場八十八ヶ所と周辺スポットポタリング
今回は日秀地区

新四国相馬霊場八十八ヶ所29番
曹洞宗 慈愍山 観音寺

石造物もなかなか充実していて見応えがあり、
首曲がり地蔵尊や平将門公の守本尊であった行基菩薩作観世音像を安置している観音堂は意見の価値あり。

88 & 周辺ポタリング MAP

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