我孫子市市制50周年記念事業の1つ『山下清展』
昭和30年(1955)、我孫子町、布佐町、湖北村が合併して我孫子町となってから15年後の昭和45年(1970)7月1日、市制施行により我孫子町が我孫子市になった。
それから50年が経ち、我孫子市制50周年記念事業がいろいろと開催されている。
以前紹介した『プリニウスの動物たち』がそうだ。
あと、手賀大橋アンダーパスの壁画『静寂』もその1つだった。
そして同じ我孫子市市制50周年記念事業の1つとして『山下清展』が我孫子市生涯学習センターアビスタで開催されている。
山下清と我孫子と彌生軒と
なぜ『清さん、お帰り。』なのか?と言えば、これはもう有名な話だけど、山下清は我孫子のお弁当屋さん『弥生軒』で住み込みで働いていたことがあって、我孫子は山下清ゆかりの地だからなのだ。
弁当屋以外にも鍛冶屋や蕎麦屋や魚屋など、千葉県ではいくつかの仕事に就いていたみたいだ。
時期は1942年(昭和17年)からの5年間で、戦争が激化している頃であり、食糧難の頃でもあった。行商の人から『弥生軒で働いていれば食うことには困らない』と聞かされたのがキッカケとか。
この『弥生軒』は現在はもうお弁当はやっていないみたいだ。その代わり我孫子駅とお隣の天王台駅で立ち食い蕎麦屋をやっている。
知っている人は知っているあの大きな唐揚げが入った唐揚げそばでも有名なお店だね。
入口のところに『彌生軒はぼくが働いていたお店です』という自筆の色紙や、弥生軒の駅弁の包装紙になった絵、その頃の写真がある。
実際には弁当を運ぶのが仕事だったみたいだけど、まあある意味『働いていたお店』ではある。駅の近くには弥生軒の本社工場もある。
今回の展覧会では、我孫子ブースがあって、そこには上の『彌生軒はぼくが働いていたお店です』の色紙や駅弁包装紙に使われた実際のペン画も展示されていて、やっと本物を見ることができて結構嬉しかった。
山下清とは?
山下清というと、どうしても芦谷雁之助の『裸の大将』を思い出してしまうが、実際はどんな生涯だったんだろう?
山下清、1922年(大正11年)3月10日 – 1971年(昭和46年)7月12日。東京浅草生まれ。
小学校では環境に馴染めずいじめに遭い、千葉県の養護施設八幡学園に入園。独自の技法による貼絵をはじめたのが1934年の頃。その後、学園の子供たちの小展覧会が開かれ、安井曽太郎らからの賞賛を受ける。
1940年(昭和15年)頃から放浪の旅を繰り返すようになる。徴兵検査を恐れてだったという。徴兵年齢を過ぎた21歳の時に母の元に帰ると、母に検査を受けさせられるが、結局不合格となり戦争に行くことはなかった。
ちょうどこの頃に我孫子の弥生軒に居たんだね。
転機が訪れる。アメリカの『LIFE』に紹介され、大捜索されて1954年の鹿児島で実に15年近くに及ぶ放浪生活に終止符が打たれ、画家の道へ。
1956年(昭和31年)には東京の大丸百貨店で本格的な個展が開かれ大好評だったみたいだ。何しろ80万人もの人が訪れたというのだから、これはかなりスゴイ。
1961年(昭和36年)にはヨーロッパへ。帰国後は個展の全国巡回で忙しくしている中、高血圧網膜症を患い制作ペースがダウンしていく。
そんな頃、周囲からの勧めで東海道五十三次に挑むことになる。5年をかけて東京から京都までスケッチを終え、素描を完成させていったが眼底出血で静養に入る。
しかし1971年(昭和49年)には脳出血で還らぬ人となってしまう。49歳だった。
山下清展感想
さて、そんな山下清の個展は、まだ少年時代だった頃の作品から始まる。そして上記のような生涯を作品で辿っていくことになる。
少年のころから画家となるまでをいくつかの時代に分けて展示されている。こんな感じだ。
Ⅰ 少年期から放浪へ
①少年期の山下清
●昆虫と清
●学園での出来事
●風景画に生かされた清の静物画
②学園から飛び出して、放浪へ
●戦争そして放浪へ
●放浪の思い出
●放浪時代の日本の風景
③放浪をやめる誓い
●大捜索そして放浪の終止符
Ⅱ芸術家山下清の誕生
①芸術家山下清の誕生
●画家としてのスタート、時の人・山下清
②日本ぶらりぶらり
●作品になった日本の風景
③芸術家としての挑戦
●独特の手法で描かれた油彩
●マジックペンで描かれた点描の世界
Ⅲ円熟期から晩年へ
①ヨーロッパぶらりぶらり
●貼絵になったヨーロッパ
●ゴッホへのあこがれ
●ヨーロッパ水彩紀行
②創造への挑戦
●円熟期に目覚めた陶磁器
●最後の大作・東海道五十三次
★我孫子ブース
最初の方の作品は昆虫ばかりで人物は登場しない。これはいじめられ手人間不信になった為と言われている。
ただその昆虫たちの貼絵は後で見られるような細かさはないが、それでも充分にその昆虫の特徴を捉え表現されていて見ていて楽しくなる。
やがて学園生活にも慣れてくると人が描かれるようになる。切手を使った貼絵の『ともだち』がとても良かった。
そのあとの静物画がまた素晴らしく、昆虫の貼絵からまだ3,4年しか経っていないことを考えると、その目覚ましい進歩には驚かされる。
最初の展示室を出て次に向かうと、部屋の真ん中のガラスケースの中には山下清が使っていたリュックサックや時計や認識票の展示があった。
リュックはドラマでも有名だけど、実際はあんな格好はしていなかったらしい。まあドラマの演出だからと言ってしまえばそうなんだが、不愉快な話ではある。
この部屋の一部は我孫子ブースになっていて、弥生軒の入口にあった本物も見られる。
放浪生活を鉛筆で描いている作品はかなり面白い。『水に溺れた時の事』の横たわる自身の口から流れ出る海水の描写はちょっと怖い。
この後も、いくつかの部屋に分かれて作品が展示されている。放浪時代の日本の風景が数々の貼絵の中に描かれている。有名な『長岡の花火』もあったが、とにかく細かい。手でちぎって重ねていくのは相当な根気と集中力が必要だったはずだ。
それにしてもこれらの作品は放浪から帰って来てから記憶を辿って創作されたそうだから、その観察力や記憶力は普通ではない。映画レインマンを思い出した。
放浪が終わり画家となってからの作品も、技術的にはどんどん進歩している感じだが、基本的には何も変わらない。貼絵以外にもペン画や油彩が並んでいる。1つ1つが本当に素晴らしい。紙皿に油彩で花を描いた作品は特に印象に残る。
ヨーロッパの風景を描いた作品の貼絵はとにかくすごい。逆に素朴さが失われている感じもあるが、完成度の高さは驚異的だ。
ペン画に水彩で薄く着色した作品もなかなか面白い。この頃は視力がかなり低下していて貼絵の数は随分と減ってしまったようだ。
最後は『東海道五十三次』の版画。全部ではなく数点ではあったがこれも良かった。この素描のオリジナルは既に行方知らず。記録用の版画のみが残っている。
見終わって階段を下るところにはいくつかの陶磁器の作品。ここに展示?とは思うがまあ仕方がない。
というわけで…
140点余りの山下清の作品を見ることができた『山下清展』は、かなり見応えがあったし、素晴らしかった。恥ずかしながら、貼絵の数点くらいしか実はその作品を知らなかったから余計にそう思えた。
まさか自転車ですぐに行ける場所でこんなに素晴らしいものが見られるとは思わなかった。
1つだけ残念なのは、作品は素晴らしいのだが、展示してあるパネルがちょっと酷い。ちょっと作品を飾るには相応しくないなと思ったのだがどうなんだろう?
でも、逆にこれも実はありなのかもしれないと違う視点では思う部分もあるんだけど…。
いずれにしても非常に満足感の高い展覧会だった。
連休明けでなのか、場所が場所なだけになのか、周知されていないからなのか、はわからないけれど、全く混んでなくてゆっくりと見ることができたのは本当に良かった。
多分絵にあまり興味がない方でも、結構楽しめると思うので、是非沢山の方に見ていただきたい展覧会である。
基本情報
開催期間:令和2年11月21日(土)~12月20日(日)無休
開催時間:午前10時~午後4時30分(入場は午後4時まで)
開催場所:我孫子市生涯学習センターアビスタ(我孫子市若松26の4)
入場料:大人(満18歳以上)700円
小学生以上高校生以下及び障害者手帳ご持参の方300円
未就学児、満18歳未満の障害児及び障害者手帳ご持参の方の介助者(1名)無料
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