我孫子手賀沼ハケの道ポタリング…志賀直哉邸跡(緑雁明緑地)

志賀直哉邸跡書斎

志賀直哉邸跡

瀧井幸作仮寓跡というか、古墳公園から次へ。

志賀直哉邸跡石碑
▲ 志賀直哉邸跡(緑雁明緑地)

少し行くと今度は『志賀直哉邸跡 緑雁明緑地』と書かれた石碑を右手に見つけるはずだ。ここは志賀直哉が住んでいた家があった場所。

志賀直哉邸跡階段
▲ 階段を上ると…

書斎

但し、『あった場所』であって『ある場所』ではない。ただ、かろうじて書斎だけが復元されている。

なだらかな階段を上ると正面だけの奥に小屋が見えてくる。こんな小さな家に住んでいたのかと勘違いする方も中にはいるかもしれないが、これはあくまで書斎である。

志賀直哉邸跡書斎
▲ 思いのほか小さな建物だがこれが志賀直哉邸の全てではない

普段は雨戸が閉じられていて屋内を見ることができないが、土・日は10:00~14:00の短い時間解放されて見ることができる。

志賀直哉邸跡書斎
どうせなら雨戸が解放されたところを見たい

説明パネルが傍にあって当時の書斎の写真も見ることができる。

志賀直哉邸跡書斎
▲ 志賀直哉書斎の説明パネルにはこの建物のことが詳しく書かれている。

6畳間で北側には床の間、地窓、踏込み 、トイレ。

志賀直哉邸跡書斎
▲ 平日訪れた方はこの屋内が見られない

東側に押入、南側に濡れ縁。

志賀直哉邸跡書斎
▲ 平日はこのように雨戸が閉まっている

屋根は銅板平葺き、外壁は漆喰塗りで腰を板張りとしているが、元々は杉皮葺きで、外壁は下まで漆喰塗りだったようだ。

志賀直哉邸跡書斎
▲ 書斎の脇にある井戸

内装は漆喰仕上げの壁、船底天井に網代を張り、棹縁に柱の磨き丸太を用いている。柱は杉材で手斧跡を残したなぐり仕上げ。虫喰い跡のある杉丸太の梁や垂木を見せる。

志賀直哉邸跡書斎
▲ 渋いがなかなかステキだ

床柱には青桐の皮付き丸太、落し掛には湾曲した百日紅。

志賀直哉邸跡書斎
▲ 志賀直哉邸跡書斎外観

数寄屋風の手法だが、かなり独創的で趣味的な建物になっている。

敷地内

ハケの道より少し高い場所にあるこの敷地内には、書斎以外にもいろいろとある。

あづまや

例えば入って左のほうにはあづまや。

志賀直哉邸跡あづまや
▲ なかなか良い感じのあづまや

<div class=

<h3><span id=案内パネルいろいろ

勉強になる案内パネルもある。

白樺派と我孫子

白樺派と我孫子パネル
▲ 『白樺派と我孫子』

『白樺派と我孫子』の写真は大正六年の武者小路邸の庭での集合写真。武者小路実篤と柳宗悦と志賀直哉が並んで写っている。

この写真は『旧武者小路実篤邸』の解説パネルにも使われているし、我孫子駅まえにある『我孫子市ゆかりの文化人』のパネルにも使われているやつだね。

このパネルには他にも昭和3年のこのあたりの地図や、白樺派と我孫子の文人相関図が載っていて結構面白い。

説明の内容はこんな感じ。これを読むとそのタイトル通りで、白樺派と我孫子の関係が良くわかる。

1910(明治43)年、学習院、東京帝国大学に学ぶ若者たちが文芸雑誌『白樺』を創刊しました。

『白樺』には志賀直哉、柳宗悦、武者小路実篤、有島武郎、有島生馬、里見弴、木下利玄、郡虎彦、長與善郎、梅原龍三郎、岸田劉生、中川一政ら若い作家・芸術家たちが集い、後に「白樺派」と称されます。

彼らは近代芸術を創ったロダンやセザンヌを理想と仰ぎ、既存の芸術・文芸からの脱却と革新を志していました。

大正3(1914)年、柳宗悦は声楽家中島兼子と結婚し、叔父の嘉納治五郎(講道館創始者、教育者)のもつ我孫子の別荘の隣地(「三樹荘」)に引っ越してきました。

東京から常磐線で1時間余り、静謐(せいひつ)で美しい手賀沼が広がる我孫子が気に入った柳のすすめもあって、大正4年に志賀直哉がこの地にすまいを構え(大正12年まで居住)、つづいて武者小路実篤や陶芸家バーナード・リーチ、志賀を師と慕う小説家瀧井孝作も我孫子に集いました。

白樺派が我孫子に集った期間は大正時代の一時期で決してながくはありません。

しかし、彼らが若い感性を磨き合い、ここで既存の芸術・文化からの自立を提案したことは、明治とは違う新たな時代を模索した大正の人々に大きな影響を与えたといえます。

『白樺派と我孫子』

ここで書かれた小説

ここで書かれた小説パネル
▲ 『ここで書かれた小説』

『ここで書かれた小説』の内容はこんな感じ。

我孫子に移住する前の志賀は、父との確執に悩み、小説の執筆も余り順調とはいえませんでした。

我孫子移住後は静かな環境の下で柳や武者小路たちと感性を高めあい、心に癒しを得て、再度創作へと意欲を高めていきました。

1917(大正6)年、長年不和であった父親との和解を題材にした小説「和解」を執筆しました。

また、同年「城の崎にて」、1920(大正9)年には「小僧の神様」、1921~1923(大正10~12)年には「暗夜行路」の前編と後編の大部分を次々に発表し、充実した作家生活を送りました。

我孫子を題材にした小説も多く(「雪の日」、「流行感冒」など)、当時の我孫子の情景をしのぶ貴重な資料となっています。

『ここで書かれた小説』

この場所から有名作がいろいろと生まれているわけで、考えてみるとこれはなかなか凄いことだ。

文人たちのエピソード

文人たちのエピソードパネル
▲ 『文人たちのエピソード』

『文人たちのエピソード』もかなり面白い。

志賀直哉をはじめとして我孫子に集った白樺派の文人たちが残したエピソードを瀧井孝作(作家・俳人)、木下検二(志賀の学習院時代の後輩)、柳兼子(柳宗悦の妻)、武者小路実光(武者小路の甥・仏文学者)の想い出から紹介しましょう(「我孫子市史研究」より、敬称略)。

EPISODE1

白樺派がいた大正時代の我孫子は、志賀や柳、武者小路が我孫子を取り上げて書くため、「特別な文学村」のように考えられていたといいます。

EPISODE2

柳兼子はバーナード・リーチの意見を取り入れ、味噌を入れたライスカレーを訪れる文人たちにふるまいました(「白樺派のカレー」として復刻されています)。

EPISODE3

白樺派の文人たちが集った大正時代の我孫子は、駅付近を除いて電気が通じていませんでした。志賀や瀧井は、我孫子駅からロウソクに濡れた紙を巻いたものを灯して暗い夜道を帰ったといいます。

1917(大正6)年に設けられた東京帝国大学教授村川堅固の別荘(旧村川別荘)にも常夜灯としての灯篭が残されています。

EPISODE4

当時の我孫子は静かな場所だったため、柳邸と志賀邸との連絡は蓄音機のラッパを外してメガホン代わりにすることで用が足りたといいます。

EPISODE5

志賀は雪の日が好きだったが、寒がりのため、仕事中は着物の上に丹前をまとい、備長炭を山盛りにして火鉢を焚き、ストーブまで点けていたといいます。

EPISODE6

志賀は崖に穴(横井戸)を掘り、したたり落ちる湧水を活かして「天然の冷蔵庫」として利用していました。

この湧水は今でも崖に認められます。

EPISODE7

志賀と武者小路の家との間は約2キロ離れているため、互いの家を訪れるのに舟を使って往来していました。

志賀、武者小路とも器用に棹を操ったといいます。

EPISODE8

志賀や武者小路たちは志賀の妻・康子の指導を受け、女子学習院で行われた「テザーボール」(3mほどの木の棒を地面に立て、棒の先から麻縄につけたゴムマリを吊り下げ、二人で向い合ってラケットでゴムマリを打ち、早く麻縄を柱に巻きつけたほうが勝ち、という球技)をして遊んでいたといい、スポーツマンの志賀が一番強かったといいます。

またテニスコートを作って楽しんでいました。

『文人たちのエピソード』

そんなわけで、この場所はぱっと見よりも実は案外楽しかったりするのだ。

母屋の復元

ところで、ここは志賀直哉が生涯で初めて自分の家を持った場所。

柳宗悦の勧めで大正4年(1915年)9月にやってきて、大正12年(1923年)3月まで過ごしている。

大正4年に建てられた母屋はもうそこにはない。

志賀直哉邸跡屋間取り
▲ かつての縁側の場所
志賀直哉邸跡屋間取り
▲ かつての玄関の場所

ただ、池の手前のかつてあった場所には、見落としがちだが、母屋の間取りが石畳みに復元されているのがなかなか面白い。

志賀直哉の住まいパネル
▲ 『志賀直哉の住まい』

案内パネルにも間取りの図があるが、実際の広さがわかるのでこれはこれで楽しい。

元々は池もなく、そこも母屋だったことはパネルの方で知ることになる。

二階家

志賀直哉邸跡二階家への階段
▲ かつての『二階家』に向かう階段

大正7年に志賀直哉は崖の上に『二階家』と呼んだ離れをつくる。

普通なら見晴らしの良い台地の先端部の離れの方に母屋がありそうなものだし、実際多くの別荘はそうなのだが、なぜか裾の方に建てている。

志賀直哉が沼で舟やスケートなどの野外活動を楽しんだり、友人の武者小路実篤との往来の為だったようなことが書いてあったが、それも想像でしかない。

書斎の裏に階段がある。当時のものではないだろうが、離れに向かう時に使った道なのかな。

上から眺める志賀直哉邸跡書斎
▲ 階段途中から書斎を眺める

その3年後にこの書斎をつくった。そしてそれから2年後には京都に移り住んでしまう。

そりゃあ我孫子よりは京都だよなと思うけれど、それでもこの地に多くの文人が集まった時期があったのは紛れもない事実だ。

というわけで…

今回は『志賀直哉邸跡』の紹介でした。

志賀直哉の小説は昔々読んだことがあるだけでそれっきりだ。ここに来るとまた読んでみようかなという気分になるが、未だに読み返してはいない。

でもそろそろまた読んでみても良いかなと思っている。

MAP

志賀直哉邸跡(緑雁明緑地) - Google マイマップ
志賀直哉邸跡(緑雁明緑地)
<!-- wp:image {"align":"center","id":9762,"width":500,"height":500,"sizeSlug":"large"} -->
<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large is-resized"><img loading=
▲ ベンチも良い感じ
<!-- wp:image {"align":"center","id":9762,"width":500,"height":500,"sizeSlug":"large"} -->
<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large is-resized"><img loading=
▲ 石の椅子も良い感じ

案内パネルいろいろ

勉強になる案内パネルもある。

白樺派と我孫子

白樺派と我孫子パネル
▲ 『白樺派と我孫子』

『白樺派と我孫子』の写真は大正六年の武者小路邸の庭での集合写真。武者小路実篤と柳宗悦と志賀直哉が並んで写っている。

この写真は『旧武者小路実篤邸』の解説パネルにも使われているし、我孫子駅まえにある『我孫子市ゆかりの文化人』のパネルにも使われているやつだね。

このパネルには他にも昭和3年のこのあたりの地図や、白樺派と我孫子の文人相関図が載っていて結構面白い。

説明の内容はこんな感じ。これを読むとそのタイトル通りで、白樺派と我孫子の関係が良くわかる。

1910(明治43)年、学習院、東京帝国大学に学ぶ若者たちが文芸雑誌『白樺』を創刊しました。

『白樺』には志賀直哉、柳宗悦、武者小路実篤、有島武郎、有島生馬、里見弴、木下利玄、郡虎彦、長與善郎、梅原龍三郎、岸田劉生、中川一政ら若い作家・芸術家たちが集い、後に「白樺派」と称されます。

彼らは近代芸術を創ったロダンやセザンヌを理想と仰ぎ、既存の芸術・文芸からの脱却と革新を志していました。

大正3(1914)年、柳宗悦は声楽家中島兼子と結婚し、叔父の嘉納治五郎(講道館創始者、教育者)のもつ我孫子の別荘の隣地(「三樹荘」)に引っ越してきました。

東京から常磐線で1時間余り、静謐(せいひつ)で美しい手賀沼が広がる我孫子が気に入った柳のすすめもあって、大正4年に志賀直哉がこの地にすまいを構え(大正12年まで居住)、つづいて武者小路実篤や陶芸家バーナード・リーチ、志賀を師と慕う小説家瀧井孝作も我孫子に集いました。

白樺派が我孫子に集った期間は大正時代の一時期で決してながくはありません。

しかし、彼らが若い感性を磨き合い、ここで既存の芸術・文化からの自立を提案したことは、明治とは違う新たな時代を模索した大正の人々に大きな影響を与えたといえます。

『白樺派と我孫子』

ここで書かれた小説

ここで書かれた小説パネル
▲ 『ここで書かれた小説』

『ここで書かれた小説』の内容はこんな感じ。

我孫子に移住する前の志賀は、父との確執に悩み、小説の執筆も余り順調とはいえませんでした。

我孫子移住後は静かな環境の下で柳や武者小路たちと感性を高めあい、心に癒しを得て、再度創作へと意欲を高めていきました。

1917(大正6)年、長年不和であった父親との和解を題材にした小説「和解」を執筆しました。

また、同年「城の崎にて」、1920(大正9)年には「小僧の神様」、1921~1923(大正10~12)年には「暗夜行路」の前編と後編の大部分を次々に発表し、充実した作家生活を送りました。

我孫子を題材にした小説も多く(「雪の日」、「流行感冒」など)、当時の我孫子の情景をしのぶ貴重な資料となっています。

『ここで書かれた小説』

この場所から有名作がいろいろと生まれているわけで、考えてみるとこれはなかなか凄いことだ。

文人たちのエピソード

文人たちのエピソードパネル
▲ 『文人たちのエピソード』

『文人たちのエピソード』もかなり面白い。

志賀直哉をはじめとして我孫子に集った白樺派の文人たちが残したエピソードを瀧井孝作(作家・俳人)、木下検二(志賀の学習院時代の後輩)、柳兼子(柳宗悦の妻)、武者小路実光(武者小路の甥・仏文学者)の想い出から紹介しましょう(「我孫子市史研究」より、敬称略)。

EPISODE1

白樺派がいた大正時代の我孫子は、志賀や柳、武者小路が我孫子を取り上げて書くため、「特別な文学村」のように考えられていたといいます。

EPISODE2

柳兼子はバーナード・リーチの意見を取り入れ、味噌を入れたライスカレーを訪れる文人たちにふるまいました(「白樺派のカレー」として復刻されています)。

EPISODE3

白樺派の文人たちが集った大正時代の我孫子は、駅付近を除いて電気が通じていませんでした。志賀や瀧井は、我孫子駅からロウソクに濡れた紙を巻いたものを灯して暗い夜道を帰ったといいます。

1917(大正6)年に設けられた東京帝国大学教授村川堅固の別荘(旧村川別荘)にも常夜灯としての灯篭が残されています。

EPISODE4

当時の我孫子は静かな場所だったため、柳邸と志賀邸との連絡は蓄音機のラッパを外してメガホン代わりにすることで用が足りたといいます。

EPISODE5

志賀は雪の日が好きだったが、寒がりのため、仕事中は着物の上に丹前をまとい、備長炭を山盛りにして火鉢を焚き、ストーブまで点けていたといいます。

EPISODE6

志賀は崖に穴(横井戸)を掘り、したたり落ちる湧水を活かして「天然の冷蔵庫」として利用していました。

この湧水は今でも崖に認められます。

EPISODE7

志賀と武者小路の家との間は約2キロ離れているため、互いの家を訪れるのに舟を使って往来していました。

志賀、武者小路とも器用に棹を操ったといいます。

EPISODE8

志賀や武者小路たちは志賀の妻・康子の指導を受け、女子学習院で行われた「テザーボール」(3mほどの木の棒を地面に立て、棒の先から麻縄につけたゴムマリを吊り下げ、二人で向い合ってラケットでゴムマリを打ち、早く麻縄を柱に巻きつけたほうが勝ち、という球技)をして遊んでいたといい、スポーツマンの志賀が一番強かったといいます。

またテニスコートを作って楽しんでいました。

『文人たちのエピソード』

そんなわけで、この場所はぱっと見よりも実は案外楽しかったりするのだ。

母屋の復元

ところで、ここは志賀直哉が生涯で初めて自分の家を持った場所。

柳宗悦の勧めで大正4年(1915年)9月にやってきて、大正12年(1923年)3月まで過ごしている。

大正4年に建てられた母屋はもうそこにはない。

志賀直哉邸跡屋間取り
▲ かつての縁側の場所
志賀直哉邸跡屋間取り
▲ かつての玄関の場所

ただ、池の手前のかつてあった場所には、見落としがちだが、母屋の間取りが石畳みに復元されているのがなかなか面白い。

志賀直哉の住まいパネル
▲ 『志賀直哉の住まい』

案内パネルにも間取りの図があるが、実際の広さがわかるのでこれはこれで楽しい。

元々は池もなく、そこも母屋だったことはパネルの方で知ることになる。

二階家

志賀直哉邸跡二階家への階段
▲ かつての『二階家』に向かう階段

大正7年に志賀直哉は崖の上に『二階家』と呼んだ離れをつくる。

普通なら見晴らしの良い台地の先端部の離れの方に母屋がありそうなものだし、実際多くの別荘はそうなのだが、なぜか裾の方に建てている。

志賀直哉が沼で舟やスケートなどの野外活動を楽しんだり、友人の武者小路実篤との往来の為だったようなことが書いてあったが、それも想像でしかない。

書斎の裏に階段がある。当時のものではないだろうが、離れに向かう時に使った道なのかな。

上から眺める志賀直哉邸跡書斎
▲ 階段途中から書斎を眺める

その3年後にこの書斎をつくった。そしてそれから2年後には京都に移り住んでしまう。

そりゃあ我孫子よりは京都だよなと思うけれど、それでもこの地に多くの文人が集まった時期があったのは紛れもない事実だ。

というわけで…

今回は『志賀直哉邸跡』の紹介でした。

志賀直哉の小説は昔々読んだことがあるだけでそれっきりだ。ここに来るとまた読んでみようかなという気分になるが、未だに読み返してはいない。

でもそろそろまた読んでみても良いかなと思っている。

MAP

志賀直哉邸跡(緑雁明緑地) - Google マイマップ
志賀直哉邸跡(緑雁明緑地)

コメント

タイトルとURLをコピーしました