
我孫子の手賀沼沿いのハケの道をポタリングするシリーズ。
今回は『緑南作緑地』の『杉村楚人冠碑』。
ハケの道を少し外れる

ハケの道途中にはいくつも案内板があるので迷わないとは思うが、ここはハケの道から手賀沼とは逆の方に少し外れた場所にある。
杉村楚人冠って?

ところで杉村楚人冠はご存じだろうか?
杉村楚人冠…明治5年7月25日(1872年8月28日)生まれで、 昭和20年(1945年)10月3日没。新聞記者、随筆家、俳人。本名は杉村 廣太郎。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。
楚人冠という名前の由来は?
『楚人冠』は『そじんかん』と読む。変わった名前だが、これは項羽の逸話から採られたもの。
咸陽に入城した項羽が秦の王宮を焼き尽くしたことを嘲って、『人言、楚人沐猴而冠耳。果然』と言った者がいたという話だ。要は『項羽は冠をかぶった猿に過ぎない』と言う人がいるけれどまさにその通りだ、という感じかな。
楚人冠が在日アメリカ合衆国公使館の通訳だった時に、自分にはシルクハットが似合わないと思い、置き場所に楚人冠という目印を付けて、それを筆名にも使うようになったらしい。
緑南作緑地(楚人冠公園)

さて、案内板のところを右に曲がってしばらくすると『緑南作緑地(楚人冠公園)』の案内柱が左手に見える。

遊具とベンチだけの小さな公園だけかと思う方が居るかもしれないが、『35m 杉村楚人冠碑』の案内柱がもう1つある。

それに従って階段を上がると良い感じの広場に出るのだ。

ベンチがいくつかとあづまやがあるだけの広場だが、なかなか気持ちが良い場所だ。

ここには楚人冠のステキな句碑がある。遠目には石碑に見える。

でも、『筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に』と刻まれた句碑は、近付くと気付くんだけど、珍しいことに陶製なのだ。

この陶製の句碑は陶芸家・河村蜻山が制作したもの。この人は昭和13年(1938年)に旧柳宗悦邸である三樹荘に居を構え、3室の登り窯を築き深草窯と命名して作陶活動を展開した我孫子ゆかりの人物でもある。
その後、昭和29年(1954年)には北の鎌倉と呼ばれていた我孫子を離れて、本当の北鎌倉に窯を移設してそこで亡くなっている。

正面には句が刻まれているが、側面は花のような模様があしらわれている。

これがなかなかステキなのだ。

裏には『遺徳ヲ偲ビ先生ノ遺志ニヨリ陶匠河村蜻山氏ニ嘱シテ之ヲ建ツ』とある。

句碑以外にも説明パネルがある。1つは楚人冠の紹介。

もう1つが楚人冠と我孫子のかかわりについてのものだ。
関東大震災後に我孫子に居を移した楚人冠は、我孫子ゴルフ倶楽部の創立に尽力したり、アサヒグラフ連載の名随筆『湖畔吟』などで手賀沼を紹介して、別荘地としての我孫子の発展に大いに貢献したようだ。
俳句結社『湖畔吟社』を組織して地元の俳人育成にも努めており、その湖畔吟社の有志がこの碑をつくったのだ。
というわけで…

広場に句碑があるだけだが、あづまやの先からは手賀沼も見えてなかなか良い場所である。
この近くに楚人冠が住んだ場所がある。次はそちらに行ってみよう。
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