布瀬空を飛んだ観音様と弁財天宮と布瀬貝塚と香取鳥見両神社と福蔵院跡東葛印旛大師第21番ポタリング

東葛印旛大師第21番札所

空を飛んだ観音さまの観音堂

布瀬観音堂

宝寿院から第21番札所の福蔵院跡に向かう前に、
ちょっと寄り道。

宝寿院にあった第62番札所は、
実は文政期から昭和期までの間は同じ布瀬にある香取鳥見神社にあったようだ。

そんなわけで、
宝寿院の石段がある坂を下りたところを右折して香取鳥見神社を目指す。

途中で更に寄り道、
Google Map観音堂とあったのでちょっと行ってみる。

布瀬観音堂

階段の脇には、
空を飛んだ観音さまと書かれた標柱

どうやら、
柏市観光協会の柏のむかしばなしの1つに取り上げられているらしい。

QRコードを読み取ると、
この話の動画が見られる仕組み。

この取り組みは、
なかなか面白いが今まで見たことはなかった。

今のところ50話近くのお話が紹介されているが、
このQRコード付き標柱は10話ちょっとみたいだ。

それ以外も舞台になった場所が示された地図があるので、
いずれ巡るのも楽しいかもしれない。

さて、
階段を上ると思ったよりも広い平坦地が開けている。

正面には、
観音堂がある。

観音堂

観世音菩薩を本尊として安置するお堂のこと。

観世音菩薩

観世音菩薩は、
大乗仏教の代表的な菩薩。
人々の救いを求める声を聞くと、
ただちに救済する求道者の意。
救う相手の姿に応じて千変万化の相となるという。

大乗仏教

大乗仏教は、
仏教の二大流派の一つでもう1つが上座部仏教(小乗仏教)。
自分が幸せではないのに、
人を幸せにできるはずがないからまず自分が幸せになる、
出家して修行を積むことを通してのみ悟りに達することが出来る、
というのが上座部仏教。

それに対して、
自分が幸せになると同時に他人を幸せにする自利利他、
というのが大乗仏教。

日本の仏教の主な宗派は、
いずれも大乗仏教に分類されるらしい。

その平坦地の右手、
そして階段を上り切った左手には十九夜塔などがいくつもが並んでいる。

布瀬観音堂

観音堂の中を覗くと、
確かに観音さまがちゃんとそこにはいらっしゃった。

布瀬観音堂

そういえば、
空を飛んだ観音さまと書かれた標柱の斜め後には標石がある。

また出た!
東葛印旛大師ではない新四国十六番と刻まれた標石

もちろん、
側面には文化十酉年と刻まれている。

弁財天宮

布瀬弁財天宮

先ほどの道に戻って、
Google Mapを見ると少し先に弁財天宮とあったのでそこも訪れてみる。

布瀬長屋門

弁財天宮に向かう途中に、
名もなき長屋門があったりもする。

やがて左手に鳥居
これが弁財天宮のようだ。

名前からして、
弁財天を祀っているんだろう。

弁財天

インドの神聖な川・サラスヴァティに由来したヒンドゥー教の女神で、
仏教の守護神でもあり七福神の1人でもある。

日本神話に登場する女神、
市杵島姫命と同一視されることが多い。

弁財天の財はもともと才のようだが、
日本は財宝神としての側面に信仰が集まり財になったとか。

小さな池らしきものがあって、
一応その上に橋らしき石の渡しがある。

その先に、
弁財天宮の小ぶりの祠がある。

布瀬弁財天宮

ここでもまた、
新四国八まで読み取れる標石

側面に第80番札所の讃州國分寺とあるから、
新四国八十番なんだろう。

これもまた、
側面には文化十酉年とあるので例のものだろう。

布瀬貝塚

布瀬貝塚

Google Mapを見ると、
更にこの少し先には布瀬貝塚とある。

貝塚跡があるならせっかくだから見ておこう、
ということで砂利道でちょっとイヤだったけど進んでみる。

左手に白くなっている箇所が見えてくる、
これが布瀬貝塚

貝塚

従来の定説では貝塚は単に貝殻の捨て場所だったが、
貝の加工工場あるいは塩の生産工場のような役割を果たした場所とする解釈もある。

貝殻以外にも、
鳥獣魚骨など食料の残滓、
破損した土器・石器・骨角器などの道具類、
焼土や灰なども発見される。

どうやら千葉県は貝塚跡が多いらしく、
その数は全国の1/4をも占めるというのだからこれって結構スゴイことだね。

海面を15m上げると、
千葉県は見事に島化
したという画像を見たことがある。

実際縄文時代は15mまではいかなくても、
現在よりも海面が5メートルほど高かったとされている。

なので、
関東平野の内陸奥深くまで海が入り込んでいて大きな湾を形成していたと考えられている。

貝塚跡が多数発見されるのは、
きっとそのあたりが理由なんだろう。

布瀬貝塚

この布瀬貝塚には、
ハマグリ・シオフキ・オキシジミなどの貝殻が遺されているとのこと。

貝殻だけではなくて、
縄文土器・石斧・石鏃・牙鏃・骨針・貝刃・凹石・土錘・獣骨・人骨なども発掘されたみたいだ。

香取鳥見両神社

香取鳥見神社

さて、
ようやく香取鳥見両神社だ。

布瀬地区の東端、
手賀沼の干拓地に突き出る台地の上に鎮座している。

香取鳥見神社

鳥居へと続く道の脇には、
まだ沼南町だった頃の名残りの案内板がある。

香取鳥見両神社再建記念碑

香取鳥見神社

案内通りに進むと正面に鳥居が見え、
その右手には立派な香取鳥見両神社再建記念碑が。

ここには、
詳しくこの神社のことが書かれているのでお勉強してから中に入る。

当社「香取・鳥見神社」は、
経津主命及び饒速日命を祀り、
人皇42代文武天皇、
文武2年(698)9月15日創立を伝えられる。

文武2年6月は、
大干害にて諸作物が皆枯死し地方の人々は嘆き、
近郷の農民が協力努力して当地に集合、
氏神に祈願し忽ちにして甘露の雨を降らせ、
五穀豊穣を得たが故に同年9月該所に一宇を建立したのが始まりです。

本村産神と無窮に尊敬崇拝し、
その後天慶年間(938~947)平将門の反乱の際に保存し置ける宝物は、
兵火で全部灰燼に帰し、
本社は付近20ヶ村の総鎮守故に村民の信仰が厚く再建の議起こり、
此の時下総国大介、
千葉常重公が之を聞き費用全部支出して、
社殿を再建するや一族を率いて参拝奉幣祈願し、
神社尊敬の範を示した。

大治年中(1126~1130)、
相馬郡布瀬郷と称し、
布瀬、
手賀、
片山及び柳戸の村々を手賀の島と言い、
同神社は手賀島の郷社でした。

建長2年(1250)9月、
手賀城主原筑前の守胤親殿が更に修繕を加え、
文安3年(1446)原氏11代城主が本殿を改築する。

寛延元年(1748)7月27日、
時の嵯峨御所より勅使をして、
菊と桐の御紋章、
勅額、
御紋章付きの幕、
高張提灯及び式刀を下賜された。

天保9年(1838)11月24日に改築された本殿は、
総けやき6尺流れ破風造り茅葺き、
3面の板壁に透彫り、
向拝の柱に双龍を彫りつけ美麗なものであった。

当神社は、
大正4年(1915)8月6日、手賀村社に指定され此れを記念して同6年拝殿新築、
本殿は昭和52年(1977)町の文化財に指定されました。

昭和61年(1986)3月20日拝殿より出火、
惜しくも強風に煽られ本殿も共に焼失してしまいました。

そこで区民一同皆奮起し、
氏子総代を始めに再建委員会を組織し区民より寄附を募りました処、
区民は元より他市町の方々からも暖かい寄附を頂き、
合計五千万円余の基金が寄せられ2年の工期を以って本殿並びに拝殿の再建を見るに至り此処に完成を祝して記念碑を建立。

昭和63年3月吉日建立

香取鳥見両神社再建記念碑

ここに至る道に入るところにあった、
沼南町指定文化財は実は焼失して再建されているわけだね。

平将門の反乱の際に保存し置ける宝物は、兵火で全部灰燼に帰し、
とあるのでここもある意味平将門公スポットとこじつけてみる。

布瀬・手賀・片山及び柳戸の村々を手賀の島と言い
というのはなかなか興味深い。

沼南の歴史をあるく4 香取鳥見両神社

香取鳥見神社

鳥居を抜けてすぐのところ左には、
例の沼南の歴史をあるく白い標柱がある。

香取鳥見神社

番号は4で、
内容はこんな感じ。

この神社の祭神は、
経津主命と饒速日命でかつては手賀村の村社でした。

境内には布瀬貝塚、
鴨猟記念碑があり、
社域全体が「ふるさとの森」として町民に親しまれています。

沼南の歴史をあるく 4 香取鳥見神社

鳥居は扁額も今では石造りになっているが、
かつては木製だったんだろう。

香取鳥見神社

手前には、
またまた登場の謎の文化十酉年新四国83番の石標

香取鳥見神社

その先には、
またまた登場の謎の文化十酉年の新四国86番の石標

香取鳥見神社

確か近くだったと思うが、
やはり第82番の石標が地面にかなり埋もれていた。

香取鳥見神社

その奥には、
御詠歌額にあるように第19番の大師堂

香取鳥見神社

この大師堂は、
手前の謎の86番石標に対応しているわけでもなく東葛印旛大師のものでもない。

香取鳥見神社

もしかしたら、
謎の第19番の石標があったのかもしれないが見つけられず。

東葛印旛大師第19番は、
第42番と共に正光寺にある。

では何なんだ?と疑問に思ってみても、
わからない。

香取鳥見神社

その謎の第19番の大師堂の右手には、
一見そうとは思えない外観のトイレがある。

これは周りと調和していて、
なかなか洒落ている。

香取鳥見神社

近くには、
香取鳥見両神社社務所

香取鳥見神社

参道を進むと、
右手に昭和17年(1942年)の鴨猟記念碑と案内板がある。

香取鳥見神社

記念碑はそのままだと倒れてしまうのか、
支えがあった。

香取鳥見神社

鴨猟記念碑は漢文なので、
ちゃんと読む気にはならなかったが案内板ではこんな感じで書いてある。

鴨猟記念碑

この記念碑は、
昭和17年12月手賀沼狩猟組合の解散に際し、
鴨猟の果たした役割を後世に伝えるために建立されたものてす。

ここ香取鳥見神社の神域は、
干拓前には三方を手賀沼に囲まれ、
北に筑波を望む景勝の地でした。

手賀沼は、
時として洪水を起こし自然の猛威を振るいましたが、
その反面、
あふれんばかりの天然の恵みを人々に与えました。

その代表が川魚猟や水鳥猟です。

鴨猟の歴史は古く、
流モチ縄(ボタ縄)を布瀬の住人が発明したのは、
中世中頃の建武年間と伝えられ、
豊臣秀吉や徳川家康にも水鳥を献上したとされています。

以後、
冬場の貴重な収入源として農家の家計を助け、
都の人々からは歳暮として喜ばれたのです。

ボタ縄猟は茅から作成した魅くて強力な縄に鳥モチを付け、
水面に浮かべ、
水鳥を捕獲するという猟法で、
張切網と併用されました。

碑文の内容は、
手賀沼の名前の由来とその歴史、
猟組合の成立から解散に至った経緯等で、
題字は当時の著名な雁鴨類の研究者であった黒田長禮博士です。

平成2年3月沼南町教育委員会

鴨猟記念碑案内板

遥か昔のこととはいえ、
この辺りでは鴨猟が盛んだった頃があったわけだね。

今でも手賀沼周辺では鴨はあちこちで見られるが、
随分と少なくなってしまったみたいだ。

以前は、
想像を超える数の鴨がいたらしい。

香取鳥見神社

先へ進むと、
左手の文化元年(1804年)の手水舎の先に合肥された9基の石塔・石祠が並んでいる。

香取鳥見神社

・寛政四年(1792年)稲荷大明神
・昭和4年(1929年)稲荷神社
・不明
・文政八年(1825年)箭弓稲荷大明神
・文政九年(1826年)飯綱権現
・明和八年(1771年)蔵王大権現
・文化十三年(1816年)牛頭天王
・安政四年(1857年)大黒天宮
・明治10年(1877年)辨財天

香取鳥見神社

手前には、
またしても謎の文化十酉年の新四国第3番。

香取鳥見神社

更には、
第84番の石標も。

香取鳥見神社

参道をさらに進むと、
また左手に鳥居と屋根の下に7基の石塔・石祠が並んでいる。

香取鳥見神社

・不明
・安政七年(1860年)三輪大明神
・安永八年(1779年)大黒天
・文政四年(1821年)六字名号塔
・明治三十年(1897年)神明宮
・明治四十一年(1908年)水神宮
・不明

香取鳥見神社

ここにもあった、
謎の文化十酉年の新四国第85番の石標。

香取鳥見神社

更に、
2番と88番の石標もある。

とっくに、
これまでの東葛印旛大師石標の数を抜いている。

右には大杉神社の境内社があって、
参道を挟んだ逆側にも不明な祠がある。

香取鳥見神社

やがて、
社殿に近付く。

香取鳥見神社

狛犬は、
なかなか重厚感があって良い。

香取鳥見神社

何となく、
左右雰囲気気が違う気がするのだがどうなんだろう?

香取鳥見神社

社殿の神額は、
金色に縁どられた木製のもので美しい。

香取鳥見神社

ただ、
焼失前の社殿は見てみたかった。

脇には、
拝殿建築記念碑やら御成婚紀念紀念敷石碑やら伊勢神宮太太御神楽奉納紀念なども。

ちなみに、
社殿の裏にもまた例のものが。

うっかり写真を撮り損ねたが、
確か第87番だったはず。

なので、
ここには第2~3番第82~87番の8基の標石があったことになる。

もしかすると、
他にもあったかもしれないが見つけたのはここまで。

そうそう、
この神社に布瀬弁財天宮から上ってくる坂にも多分新四国の標石があった。

布瀬の道端の石標

番号は読めなかったが、
側面には文化十酉年と刻まれていたのでこれも例のものかもしれない。

東葛印旛大師 第21番札所 福蔵院跡

東葛印旛大師第21番

さて、
やっと本題だけどあっさり終わる東葛印旛大師第21番札所福蔵院跡

東葛印旛大師第21番札所

と、
その前に到着手前の十字路の一区画。

東葛印旛大師第21番札所

この敷地内には不明の2つの祠に小さな石祠、
二十三夜塔などなどがある。

二十三夜塔

十九夜塔同様、

特定の月齢の夜に集まり、
月待行事を行った講中で供養の記念として造立した塔。

十三夜塔~二十六夜塔、
七夜待塔や月待板碑や併刻塔がある。

二十三夜塔は、
旧暦23日の月待の記念として、
二十三夜講中によって造立された塔。

本尊は、
勢至菩薩。

勢至菩薩
阿弥陀三尊の一つで阿弥陀仏の右の脇侍で、
宝冠の中に宝瓶を乗せて手に蓮華を持つ。

東葛印旛大師第21番札所

ただまたしても登場する、
謎の文化十酉年の新四国第74番の石標

以前巡っていた際に、
この違う番号の標石を見つけて混乱した記憶がある。

そんなわけでやっと、
福蔵院跡に到着。

跡だから、
もう福蔵院はない。

平将門の乱の戦火によって焼失したが、
本尊の不動明王高野御殿へと避難し無事だったようだ。

不動明王

密教の根本尊である大日如来の化身であると見なされている。

五大明王の中心となる明王(密教における尊格及び称号で如来の変化身ともされる)。

ちなみに五大明王は、
・不動明王
・降三世明王
・軍荼利明王
・大威徳明王
・大威徳明王

東葛印旛大師第21番

今では、
布瀬構造改善センターという場所になっていてここに祀られているらしい。

東葛印旛大師第21番

向かって右側奥に、
東葛印旛大師第21番札所の大師堂がある。

東葛印旛大師第21番

実際の四国八十八所霊場第21番札所は、
阿波の三難所の一つと言われる標高約600mの山頂付近にある太龍寺

東葛印旛大師第21番

所在地:徳島県阿南市加茂町
創建:(伝)延暦12年(793年)
開祖:(伝)桓武天皇(勅願) 空海(弘法大師)
山号:舎心山
院号:常住院
寺号:太龍寺
宗派:真言宗善通寺派
本尊:虚空蔵菩薩
真言:のうぼう あきゃしゃらばや おん ありきゃまり ぼり そわか
御詠歌:太龍の 常にすむぞや げに岩屋 舎心聞持は 守護のためなり

手前には、
前後に石塔やら石仏やら石祠が並んでいる。

東葛印旛大師第21番

手前は、
首が取れてしまっている像無縫塔石祠

無縫塔

主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)。

塔身が卵形という特徴があり、

別に卵塔とも呼ばれる。

そして、
またここにも謎の文化十酉年の新四国第72番の石標

昭和44年(1969年)大師講供養碑や、
昭和19年(1944年)新四国巡拝塔

東葛印旛大師第21番

後方には、
宝永七年(1710年)青面金剛像

そして、
延宝六年(1678年)遊戯座如意輪観音像

更に、
貞享五年(1688年)立像如意輪観音像

如意輪観音❓

仏教における信仰対象である菩薩の一尊。

観音菩薩の変化身の一つ。

六観音の一尊に数えられる。

そして、
文政九年(1828年)出羽三山供養塔

これらの対面、
広場の左手には小さな公園。

東葛印旛大師第21番

そこには、
かつて木造の建物の一部だったらしきものが置かれているが詳細は全くわからない。

東葛印旛大師第21番

小さな公園の左手にも、
謎の文化十酉年の新四国第72番の石標などなど。

東葛印旛大師第21番

以前訪れた時に見たよりも、
随分と劣化しているようにも見える。

東葛印旛大師第21番

まだ2年くらいなんだけどね、
でも2年は長くもある。

もしかすると、
雨上がりの後だったせいもあるかもしれない。

いずれにしても、
同じ場所で同じように佇んでいる姿は何だかホッとした。

というわけで…

今回は随分と長くなったけど、
これでおしまい。

空を飛んだ観音様弁財天宮
布瀬貝塚香取鳥見両神社

そして、
東葛印旛大師第21番札所

これで布瀬地区は終了、
次はどうしよう?

まあ、
急ぐわけでもない。

ゆっくりと、
のんびりと楽しみながら巡ろう。

東葛印旛大師第21番札所ポタリングMAP

☆アイコンは過去分
自転車アイコンは今回分

他の東葛印旛大師88ポタリングはこちらから






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