2022/11/23更新…県道282号線脇の寛文八年(1668年)金剛界大日如来像追加。
東葛印旛大師手賀地区の最後
東葛印旛大師手賀地区の最後を飾るのは、
兵主八幡両神社にある第13番。
興福院から、
この兵主八幡神社まで山車が引かれ3ヶ所で手賀ばやしが奉納される。
手賀・片山両地区の境界にあって、
札所は片山地区扱いになっているが地図的には手賀地区なのでこちらで。
手賀地区
①手賀稲荷社 64番札所
②興福院 75・77・85番札所
③手賀小学校・西光院跡 86番札所
④兵主八幡両神社 13番札所
☆生繁大師堂 掛所
☆興福院平和公園共同墓地 掛所
沼南の歴史をあるく9 兵主八幡両神社
ここは沼南の歴史をあるく 9で、
例の白い標柱がある。
昔は手賀原氏の鎮守とされ、
手前の直線路は馬場跡とされています。手賀・片山両地区(両地区の境界にある)の鎮守であり、
沼南の歴史をあるく9 兵主八幡両神社
現本殿は文化十四年(1817)の再建です。
兵主八幡両神社向かいの8基の庚申塔
馬場跡とされている手前の直線路は、
ばんばと呼ばれていた。
駐在所(いつの間にやら右横にズレて新しくなっている)側にある北の鳥居から、
もう一方の南の鳥居までおよそ200mくらいはあるだろうか?
結構な長さの細い道が脇の道路に並行して続いているが、
これが馬場跡。
遥か昔はここで馬の調教や、
流鏑馬などを行ったりでもしたのだろうか?
そんなことを考えながら、
ここを歩くのは楽しい。
この南の鳥居の道を挟んだ先には、
道路に向かって8基の庚申塔が並んでいる。
❓庚申塔・庚申講❓
庚申塔は60年に1回の庚申の年や、
60日に1回の庚申の日に庚申講を3年18回続けた記念に建立されるもの。
庚申講は庚申の日に人間の体内にいるという、
三尸の虫(上尸・中尸・下尸)という虫が、
寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、
庚申の日に夜通し眠らず、
青面金剛や猿田彦などを祀って宴会などをする風習のこと。
報告された罪状によっては、
寿命が縮められたり、
その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると言われていた。
この庚申信仰は、
元は中国の道教から生まれたもの。
うっかり通り過ぎそうになったが、
こうやってあちこちに実はあったりするのだ。
1番奥にある背の高い塔は寛政十二年(1800年)庚申年、
青面金剛塔と彫られている。
❓青面金剛像塔❓
青面金剛はインド由来の仏教尊格ではなく、
庚申信仰の中で独自に発展したもの。
三尸を押さえる神。
足で邪鬼を踏みつけ、
六臂(6本の腕)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラを持つ、
忿怒相で描かれることが多い。
六臂ではなく二・四・八臂の場合もあり。
台座には、
三猿が。
庚申塔には、
この三猿をよく見掛ける。
❓三猿❓
見ざる、
言わざる、
聞かざるの三猿のモチーフは、
庚申信仰の伝播とともに近世以降広く用いられるようになった。
青面金剛を描く際に、
その足元に三猿が添えられた例が多い。
また他の庚申塔にも多く三猿が彫り込まれている。
続いて天明五年(1785年)、
青面金剛王と彫られている。
明治六年(1873年)、
猿田彦大神と彫られている。
❓猿田彦❓
天上界から神が地上に降り立ったといわれる天孫降臨。
天照大神の命を受けた瓊杵尊を高千穂へと導いたのが、
猿田彦大神。
このことから、
進むべき道を照らす道開きの神として、
篤く崇敬されている。
猿と申の混同から、
庚申の日にこの神を祀るようになったらしい。
猿田彦と彫られている庚申塔は、
八基の中ではこれだけだ。
延享元年(1744年)、
文字ではなく青面金剛の姿のものがある。
邪鬼を踏みつけ、
三猿がその下に。
手には、
ショケラ。
❓ショケラ❓
ショケラは人間を罹病させることを始めとし、
さまざまな悪いことをするもの。
そこで青面金剛が、
それがあばれださないように髪の毛を鷲掴みにして抑えている。
明治四十年(1907年)、
庚申塔と彫られているもの。
安永七年(1778年)、
青面金剛尊と彫られているもの。
文政十二年(1829年)、
青面金剛王と彫られているもの。
一番手前は正徳二年(1712年)、
真ん中には奉〇青面金剛各願之満所と彫られている。
意味は、
ちょっと解らない。
それ以外には、
手賀村同行と拾三人敬白かな?
この中では、
これが1番古いもので300年以上も前のものだ。
庚申塔前には、
まだ新しい塔婆が立っていた(以前のものの一部は塔のうしろに寝かされていた)。
放置されることもなく、
ずっときちんと信仰に守られているのだろう。
兵主八幡両神社社殿
この兵主八幡両神社、
創建年代等は不詳だが沼南の歴史をあるくにもあるように手賀原氏の氏神だったようだ。
手賀城が落城してしまった後は、
原氏の五重臣の一員である大山家の氏神として奉祀されていたという。
文化十四(1817年)年には、
手賀・片山両村によって本殿が造営されて以降は両村の鎮守となった。
拝殿の格子扉から中を覗かせていただくと、
幣殿・本殿が見える。
これがなかなか立派なものだが、
再建されたものなんだね。
本殿の彫刻は状態も良く、
素晴らしいものがある。
胴羽目は、
応神天皇誕生の場面。
胴羽目は、
牛若丸が兵法書を授かる場面。
昭和三十九年(1964年)には、
拝殿を新築。
新築記念碑に佇むお地蔵さんが、
妙にほっこりとする可愛さ。
この新築の際、
一緒に本殿に庇と塀を設けたようだ。
庇と塀であるから、
要するに完全な覆殿ではない。
それでも、
何もないよりは保護され具合は随分と高まるんだろう。
場所によって状態が違うのは、
覆われている部分とそうでない分の差なんだろう。
中は見難いけれど、
ちゃんと覗けるのはありがたい。
ありがたいけど、
彫刻の鑑賞には不向きだ。
でも保護する為だから、
これで良いのだ。
屋根は茅葺だったものを昭和四十六年(1971年)、
銅板葺に改修している。
❓社殿・拝殿・本殿・幣殿❓
社殿は神社のメインの建物全体を指す。
拝殿は参拝する場所で1番前にある建物。
本殿は神霊を宿した御神体を安置する場所・建物。
拝殿と本殿の間にあるのが幣殿。
建物全体や本殿を保護する為に、
周りに更に建物を周りに建てているケースがあるが、
これは覆殿。
全ての神社の建物がこの構造なわけではなく、
どれかがないものもある。
境内のアレコレ
ここは、
鳥居だけでも4つある。
狛犬の先に左右それぞれ4基、
常夜灯・御神灯が建っている。
他にもいくつもあって、
年代はまちまち。
享保十三年(1728年)のものから、
昭和五十五年(1980年)のものまでいろいろだ。
手水鉢は、
天明八年(1788年)のもの。
さてさて馬場跡を南からやってきて、
右から順番に何があるのか?を挙げていこう。
何しろ、
例の謎の文化十酉年の標石が多いのだ。
新四國五十四番かな?
側面に豫州延命寺と読めるからそうなんだろう。
もう一方の側面は、
やはり文化十酉年(1813年)。
以前ここの写真を撮っていたのを見つけたが、
バックの木が同じだからこれでしょう。
こちらの方がハッキリとわかる、
確かに五十四番だ。
右にある石祠の方は、
山王権現(日吉・日枝神社の祭神)と宝暦(1751~1764年)の文字が読める。
次は新四國しか読めないが、
側面に豫州国分寺とあるので第五十九番だろう。
これも以前の写真があった、
こちらだと五十九までわかる。
これも、
文化十酉(1813年)。
左にある石祠は、
側面の寛政元己酉天(1789年)のみ読めるだけで社名はわからない。
次は木祠の右に、
また文化十酉(1813年)の標石があるが新四國六までしか読めない。
側面は豫州横岑移と読めるので、
これは横峰寺のことだろうから第六十番で良いんだろう。
答え合わせみたいだが、
以前の写真だとちゃんと六十番と読める。
木祠の中に置かれている石祠は、
うっかり確認せず。
左側の標石らしきものは、
どうやら新四國〇〇ではなさそうだ。
最初の當という文字はわかるが、
あとはわからない。
続いてはすんなり読める、
これも文化十酉(1813年)の新四國の標石で第五十一番。
右の石祠は、
天神宮と読める。
次もすんなりの、
文化十酉(1813年)の新四國の標石で第五十一番。
右の石祠は、
稲荷大明神と読める。
鳥居を挟んで、
出羽三山碑(山形県出羽三山=月山・羽黒山・湯殿山参拝記念に造立された石塔)2基。
そしてまた文化十酉(1813年)の新四國の標石だが、
これはすんなりとはいかず新四國しか読めない。
以前の写真も見てみたけど、
そちらでも今回はわからず。
ヒントにある側面の文字も、
豫州までしか読めない。
石祠は、
香取大明神。
その隣の石祠は、
平野大明神。
次にある標石の正面は、
何も文字が読み取れない。
側面も豫州だけで、
しいて言えば人編らしき文字。
そうなると、
42番仏木寺か58番仙遊寺あたりなのかな?
こうやって考えていくのは、
案外面白かったりする。
続いてまた出羽三山碑と、
富士講記念碑。
更に、
出羽三山碑。
さてここで折り返しで、
向かい側には石祠が2つ。
右の祠の正面には、
足という字だけ読める。
奥には、
浅間神社とある赤い木造の祠があるが下の岩が溶岩石っぽいものになっている。
伊勢講記念碑など、
4基の記念碑。
古峯神社碑と、
常夜燈。
後ろの木の根元にも、
古峯神社と刻まれた崩壊した石塔がある。
ここにも文化十酉(1813年)の新四國の標石があるが、
新くらいしか読めない。
側面には、
豫州石清水移とある。
これは明治初年の神仏分離までは四国八十八箇所霊場の第五十七番札所として、
別当栄福寺と共に神仏習合の神社だった石清水八幡宮のことなんだろう。
社殿に向かう鳥居の左には、
やはり文化十酉(1813年)の新四國の標石ですんなりと新四國五十三番と読める。
右奥の石祠には、
諏訪大明神。
左奥には、
太子堂がある。
扉が壊れてしまったり、
少し傷んでいる感じは残念だ。
この隣に、
本来の目的である東葛印旛大師第13番がある。
その前に、
謎の文化十酉(1813年)の新四國の標石をあと2つ。
社殿の裏にもそれはあって、
新四國五十二番とすんなり読める。
石祠の方は、
鹿嶋大神宮。
もう1つは、
社殿の右前にある。
新四までしか読むことはできないが、
側面には豫州別宮。
神仏分離令までは、
第55番札所だった別宮(その後は南光坊に移る)のことだろう。
石祠の方は、
大杉大明神。
というわけで、
不明なものも併せてここには謎の文化十酉(1813年)の新四國の標石が少なくとも11基はあった。
東葛印旛大師第13番
そんなわけで謎の方ばかりになってしまったが、
この兵主八幡両神社にある東葛印旛大師は第13番。
実際の四国八十八所霊場では、
第13番札所は大日寺。
所在地:徳島県徳島市一宮町
創建:(伝)弘仁6年(815年)
開祖:(伝)空海(弘法大師)
山号:大栗山
院号:花蔵院
寺号:大日寺
宗派:真言宗大覚寺派
本尊:十一面観音菩薩
真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
御詠歌:阿波の国 一の宮とは ゆうだすき かけて頼めや この世のちの世
というわけで…
今回は手賀地区のラストということで、
兵主八幡両神社にある東葛印旛大師第13番。
近くの庚申塔8基と共に、
境内にある謎の文化十酉(1813年)の新四國の標石11基なども一緒に。
そのせいもあって、
写真枚数がかなりの数に。
まあ百聞は一見に如かず、
だからこれで良いのだ。
そうそう、
ここに向かう途中の道路の脇に明治時代の石祠を見つけた。
花に囲まれいて、
何だかこういうものが道脇にあるのは良いなと思った。
もう1つ、
場所は県道282号線脇だけれどこちらにもポツンと寛文八年(1668年)の金剛界大日如来像。
でも下に三猿がいるので、
これは庚申塔なんだな。
東葛印旛大師第13番ポタリングMAP
過去分は☆アイコン、
今回分は自転車アイコン。
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