平将門公スポット?高野館跡
布瀬地区、
木崎薬師堂から来た道を引き返し花見堂地蔵尊のところまで戻る。
花見堂地蔵尊の脇の道を行くと、
高野館跡というものがある。
もちろん跡だけに建物など何もなくて、
ただ竹林があるだけだ。
それでも方形の土塁と、
これを取り巻いていたと推定される外郭土塁が何となくあるのかなという感じはわかる。
でもまあ知らなければ、
ただの竹林でしかない。
そもそも知っていても、
よくわからない。
ただ竹林が平坦ではなく、
人工的に凹凸がつくられた感じは何となくわかる。
ここはなぜか、
郭の外よりも郭内の方が低い。
平将門公の別所として造営され高野御殿と呼ばれていた、
という話もあるので一応ここも平将門公関連スポットではある。
でも実際は、
遺構の防御性の脆弱性から戦国盛期の城館ではなく室町期のものと推定されているようだ。
布瀬地区の四辻真ん中の島にある石祠や道標
その高野砦跡を過ぎて更に先を進み突き当りを右、
そしてまた突き当りを右に進んで三叉路を右。
そうすると、
四辻の真ん中が島になっている場所に。
そこには、
道標や道祖神。
昭和8年(1933年)の背の高い道標には、
手賀小学校ヲ経テ片山方面ニ至ル。
更に手賀の文字と、
人差し指が刻まれたもの。
更に、
千間渡船場経テ湖北村。
そして、
柳戸泉ヲ経テ柏町方面とある。
明治42年(1909年)の大師道の道標には、
真ん中に大師(道)。
そして両側には、
手(賀)と布(瀬)と刻まれている。
上には、
方向を指し示す人差し指が左右に。
この道を示す人差し指、
昔から何となく好きなんだよな。
昔は何だかよくわからなかったが、
方向を示すんだろうくらいには思っていた。
いくつか、
こういう道標が通学路の途中にあった記憶がある。
あとは、
道祖神。
❓道祖神❓
元々は村の境界や峠、
道の分岐点などに祀られていて、
外来の疫病や悪霊を防いでくれる神様。
後に、
旅行安全・縁結び・子授け・安産の神などとしても広く信仰される。
文字だけなので、
あまり面白味はない。
安曇野に多い双体像(男女二神が手を取り合う和合の形のもの)みたいだと、
楽しいんだろうけど。
道祖伸は痛んだものも含めると。
ここには3基ある。
あまり見掛けたことがないように思うが、
意識していなかったからかもしれない。
布瀬地区宝寿院
この四辻を左折して、
すぐ右折すると左手に宝寿院の本堂の裏に至る入口がある。
真言宗豊山派寺院宝寿院は、
多宝山宝寿院無量寺。
建年代等は不詳ながら、
享禄元年(1528)の創建と伝えられ江戸期には数多くの檀家を有していたといわれる。
ここから境内に入らずに坂を下って行くと、
左手に30段余りの石段がある。
右の新四国七十九番と刻まれた、
かなり背の高い石標が目を惹く。
その脇には新四国七までしか読み取れない、
別の石標が並んでいる。
左には、
延命地蔵。
その下には、
大日如来像など5基の墓塔。
石段を上っていくと、
山門がある。
その奥に見えるのが、
本堂。
宝寿院と書かれた、
木の札が掲げられている。
軒下には、
鐘が吊るされている。
もしかして、
ここに吊るされていたんだろうか?
左には、
筆子塚などが。
❓筆子塚❓
寺子屋や家塾の教え子が、
自分たちで費用を出し合って建てた師匠の塚・供養塔。
東葛印旛大師第62・79番
そして右側には、
東葛印旛大師第62・79番札所の大師堂が並んでいる。
右側が、
第62番。
手前には、
明治39年(1906年)の新四国六十二番と刻まれた標石。
御詠歌額の横には、
布瀬大師堂改築棟札。
平成5年(1993年)にここの2つと、
福蔵院にある第21番の大師堂が改築された旨が書かれている。
費用が具体的に書かれているのは、
まあ如何なものかとも思うけど。
それで実際の四国八十八所霊場第62番札所は、
本尊が安産の観音として信仰を集めるようになった宝寿寺。
所在地:香川県坂出市西庄町八十場
創建年代:天平年間(729年 – 748年)
開山:(伝)道慈律師、聖武天皇(勅願)
山号:天養山
院号:観音院
寺号:宝寿寺
宗派:真言宗善通寺派
本尊:十一面観音菩薩
真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
御詠歌:さみだれの あとに出たる 玉の井は 白坪なるや 一宮かわ
左側が、
第79番。
実際の四国八十八所霊場第79番札所は、
保元の乱で敗れた崇徳上皇ゆかりの天皇寺。
所在地:愛媛県西条市小松町
創建:(伝)天平年間
開祖:(伝)行基
山号:金華山
院号:高照院
寺号:天皇寺
宗派:真言宗御室派
本尊:十一面観音菩薩
真言:おんまか きゃろにきゃ そわか
御詠歌:十楽の 浮世の中を たずねべし 天皇さえも さすらいぞある
手前にもお堂があるが、
祀られているのは文政九年(1826年)の子安観音。
お堂の前には、
新四国七十九番の標石。
またこれも謎の文化十酉年の標石なんだろうけど、
それにしてもあちこちに登場する。
このお堂の左には、
天保八年(1837年)金剛界大日如来。
右には、
安政四年(1857年)の稲荷大明神石祠。
更に、
安永八年(1779年)十九夜塔。
そして、
明和九年(1772年)六臂合掌青面金剛塔。
青面金剛の丸い顔立ちは、
迫力に欠けるが何となく親しみが持てる。
踏みつけられた邪鬼と、
皆正面を向いている見ざる言わざる聞かざるの三猿も良く残っている。
手水鉢は、
安政2年(1855年)のもの。
というわけで…
今回の東葛印旛大師88ポタリングは、
第62・79番札所。
平将門公の別所として造営され高野御殿と呼ばれていた高野館跡と、
布瀬の道祖神や標石も一緒にお届けしました。
東葛印旛大師第62・79番ポタリングMAP
☆アイコンは過去分
自転車アイコンは今回分
コメント