手賀地区
手賀、
と言う地区がある。
手賀沼南岸、
かつて手賀城があったと言われるところだ。
地図で示すと、
このようになる。
手賀沼からは、
もちろん近くて目と鼻の先。
手賀あけぼの橋を起点にすると、
片山新田を突っ切る道を進み手賀沼沿いの車道まで出る。
左に少し行くと、
右手に道が何本もあるが3本目を曲がる。
そのまま進むと、
そこはもう手賀地区だ。
そんなわけで、
東葛印旛大師88ポタリングはこの手賀地区から始めてみる。
手賀地区には、
4つの札所と2つの掛所があってこんな感じ。
手賀地区
①手賀稲荷社 64番札所
②興福院 75・77・85番札所
③手賀小学校・西光院跡 86番札所
④兵主八幡両神社 13番札所
☆生繁大師堂 掛所
☆興福院平和公園共同墓地 掛所
以前にここでアップしている、
旧手賀教会堂もこの地区にある。
湯浅邸の長屋門
その手賀教会堂創建に携わったのが、
湯浅長左衛門という人。
湯浅家は、
手賀村で代々名主役を務めた家柄のようだ。
❓名主❓
領主側と百姓側の接点として、
村役人の中ではもっとも重要な役割を担っていたのが名主。
村内でもっとも家格の高い百姓であり、知識層であった。
年貢の取立・管理・戸籍事務・諸書類の作成や他村・領主との折衝など、
村政全般を担っていた。
湯浅長左衛門はロシア正教会の宣教師ニコライの話に感銘を受け、
洗礼を受ける。
あの御茶ノ水にある、
ニコライ堂のニコライだね。
❓ニコライ❓
日本にキリスト教の教派の1つ正教を伝道した、
高位聖職者の中でも権威の高い大主教。
亜使徒の称号を持つ聖人。
生涯を日本への正教伝道に捧げ、
日露戦争中も日本に留まって日本で永眠。
長左衛門の改宗の影響は近隣村の指導的役割の人々にも影響を与え、
皆洗礼を受けていくことになる。
そして、
長左衛門は手賀教会堂の執事長を務めることに。
先ほどの道を上がっていくと、
左手にその湯浅家の湯浅邸の長屋門がある。
❓長屋門❓
諸大名が屋敷の周囲に家臣などのための長屋を建て住まわせていたが、
その一部に門を開いて一棟とした物が長屋門の始まり。
その後長屋門は、
上級武士住宅の表門形式として広く利用されるようになっていく。
更にその後は郷村武士の家格をもつ家や、
苗字帯刀を許された富裕な農家・庄屋でも長屋門は作られる。
明治以後は、
他の富農の家屋敷にも作られるようになった。
この長屋門は、
柏市が平成29年(2017年)に景観重要建造物として3軒の長屋門を認定した際の第3号。
第2号が、
鷲野谷染谷邸の長屋門。
第1号は、
名戸ヶ谷の薮崎邸の長屋門。
どこもそうだが、
門の前には案内の角柱が建っている。
本長屋門は、
湯浅邸の長屋門 説明文
漆喰壁と船枻造りの伝統的建築物です。
敷地構えや生け垣、
家屋、
屋敷樹木を継承し、
手賀沼周辺の田園集落景観を後世に繋げる建築物として
景観重要建造物に指定されました。
残念ながら個人宅で公開されているわけではないから、
中には入れず外から眺めるだけになる。
それでも門の奥をちらっと覗いてみると、
立派なお屋敷とか蔵などが見える。
名もなき長屋門
そんな景観重要建造物に指定される長屋門もあれば、
知られざる名もなき長屋門だってある。
例えば、
これがそうだ。
どう見ても、
もう門の奥には誰も住んでいなさそうだ。
門の正面には、
下り藤の家紋が見える。
放置されて、
荒廃している。
それでも、
長屋門であることには変わりない。
いったいどんな方のお屋敷だったのだろう?
奥に建物はあるのだろうか?
詳細は全くもって不明だが、
逆になかなか見応えがある。
長屋門と言えば、
国指定重要文化財の旧吉田家住宅の立派な長屋門を思い浮かべるがこんなものもあるのだ。
harumien okutega
この長屋門の隣には、
harumien okutegaというステキな園芸やがある。
以前は、
流山でHarumien Aotaだった。
初めて訪れた方は、
まさかこんなところにこんなお店があるなんてときっと驚くはずだ。
何しろ、
雰囲気が普通の園芸店とは全く違う。
植物はもちろんだが、
それ以外にもいろいろ。
園芸用品や雑貨、
衣類などなど。
見ているだけで、
楽しい。
見ていると、
いろいろ欲しくもなる。
久しぶりに、
雑貨をアレコレ見られて楽しかった。
それにしても、
素敵なお店だ。
今回は自転車だったので何も購入せずで申し訳なかったが、
今度は車で来てみたい。
ちなみに車で訪れた場合、
お店の敷地内に駐車スペースはあるがここには数台しか停められない。
なので運悪くここに停められない場合は、
金村商店のガソリンスタンドの横にある駐車場に停めればOK。
そうそうこの金村商店、
これがまたharumienとは全く違う意味でいい感じなのだ。
この辺りにはコンビニがないから、
ここがその役割を担っているんだろう。
harumien okutega 基本情報
住所:千葉県柏市手賀787-1
TEL:090-4963-6824
営業時間:10:00~17:00
定休日:月・木曜日
1~3月/7~9月
instagram:@harumien
@harumien.no.zakka
@harumien.no.syokubutu
沼南の歴史をあるく1 手賀城跡
さて、
東葛印旛大師88ポタリングだった。
今回は、
この手賀地区の第64番札所。
この第64番は、
手賀城跡の石碑の先にある。
この手賀城跡、
跡だからお城に関連するような建物みたいなものはもう何も残っていない。
それでも土塁や空堀といった遺構は散在しているみたいで、
それっぽい場所もあったが詳しくはわからない。
❓手賀城❓
戦国時代前期に原氏の一族である臼井城の原胤貞が、
千葉宗家当主千葉勝胤より手賀600貫の領地を与えられ手賀原氏初代となり、
その胤貞に築城され、
胤貞・胤親・久胤の三代の居城となったのが手賀城といわれているが、
どうやら結構疑わしいっぽい。
天正18年(1590年)、
久胤が城主の時に小田原征伐が起こってこの城も攻められ落城したという。
ちなみに土塁は土を盛って作った土手のこと。
空堀は水のない堀のこと。
なかなか立派な石碑があって、
それがかろうじてここが手賀城があったんだよと教えてくれる。
昭和37年手賀城保存会によって建てられたこの石碑がなければ、
もうそれはただ眺めの良い台地でしかない。
ここには沼南の歴史をあるくの白い標柱はないが、
興福院にはここのことも書かれているものがある。
手賀沼を北に臨む標高20mほどの台地にあるので、
手賀沼や沼を挟んだ我孫子の台地がよく見えて気持ちの良い場所。
昔は、
もっと近くまで手賀沼があったはずだ。
沼南の歴史をあるく8 原氏の墓所
ちなみに、
原氏の墓所がここからは少し離れた御墓山と呼ばれる山林にある。
沼南の歴史をあるく
という白い標柱があってここがどういった場所なのか?を教えてくれる。
沼南の歴史をあるく 8 原氏の墓所
正面右側の五輪塔は戦国末期にこの地を領した手賀原氏の供養塔で、
沼南の歴史をあるく
江戸初期に建てられました。
左側には、
免因保護に一生を捧げた原胤昭と刑余者たちの墓石が並んでいます。
弘化三年(1846年)と刻まれた石柱で囲まれた場所には、
五輪塔と十字架型墓塔が見える。
❓五輪塔❓
主に供養塔・墓として使われる塔の一種。
下から四角(六面体)、
丸(球)、
三角(四角錐または三角錐)、
半丸(半球)、
上の尖った丸(宝珠型)または尖っていない団子型(団形)、
これらを積み上げた形に作られる。
伏見稲荷
手賀沼城址石碑の先、
畑の中の細い道を行く。
見えるのは、
平成3年の石鳥居。
その先右には、
正一位伏見稲荷大明神と刻まれた石碑。
❓正一位伏見稲荷大明神❓
正一位は神階の最上位。
神階は人臣に授けられた位階を神にも授けたもので15階ある。
分祀の際に本来は神階は引き継がれない。
神階を引き継ぐ場合には勅許が必要だったみたいだ。
ただ律令制崩壊によって、
分祀先でも勧請元の神社の神階を名乗る神社も現れた。
特に稲荷神社は総本社である伏見稲荷大社が正一位であるとして、
そこから勧請を受けた稲荷神社も正一位を称している。
正面には、
こじんまりとした社殿。
社殿も、
鳥居同様平成3年(1991年)のもの。
まだ、
さほど時を経てはいない。
なかなか良い感じの彫刻も、
殆ど劣化していない。
手前には、
手水の水盤。
氏子中、
と書かれている。
❓氏子中❓
落語にもあるが『うじこちゅう』と読む。
同じ氏神を祀る人々のこと
右奥には、
石祠5基。
左から安永四年(1775年)稲荷石祠に不明の2基、
大鷲神宮に明治24年(1891年)大杉神社石祠。
❓大杉神社❓
茨城県稲敷市阿波にある神社。
豪奢な社殿を擁することから、
茨城の日光東照宮の異名がある。
あんばさまの愛称で親しまれている。
更に、
昭和4年(1929年)の大杉神社御神田の石柱がある。
東葛印旛大師第64番
社殿左手には、
第64番大師堂。
御詠歌額の文字や札所番号の札の文字は、
ほぼ消えており読める状態にはない。
中に微かに見えているのは、
弘法大師の像。
台座には、
手賀講中と刻まれていた。
❓講中❓
同じ信仰をもつ者が講を作って神仏にもうでたり、
祭りに参加したりする信仰者の集まり。
実際の四国八十八ヵ所霊場に於ける第64番札所は、
歴代天皇も厚く帰依した石鈇山 金色院 前神寺。
歴代天皇とは、
文徳天皇・高倉帝・後鳥羽帝・順徳帝・後醍醐帝などなど。
所在地:愛媛県西条市洲之内甲
創建年代:奈良時代の初期
開山:役小角
山号:石鈇山
院号:金色院
寺号:前神寺
宗派:真言宗石鉄派
本尊:阿弥陀如来
真言:おん あみりた ていせい からうん
御詠歌:前は神うしろは仏ごくらくのよろづの罪をくだくいしづち
謎の新四国の標石
社殿と大師堂の間には、
標石が4基と寛政十年(1798年)と刻まれた灯篭。
大師堂脇にある標石は、
四国六十四番豫×里までは読み取れる。
×のところは、
多分刕(州)なんだろうね、
豫刕は伊予国のことで、
前神寺のある今の愛媛県にあたる。
刕の上の刀しかないのは、
途中で石が1度折れてしまったものを修復したからなんだろうか?
いずれにしても、
これが東葛印旛大師第64番の標石なんだろうけど他のものは何なのだろう?
1つは、
正面に新四國六十三番とある。
側面は、
豫州吉祥寺移鷲宮と文化十酉年(1813年)と読める。
あとはもう1つの新四國六十四番で、
側面は豫州里前神寺移稲荷と文化十酉年(1813年)と読める。
更に新四國七十一番があって、
側面は讃州弥谷寺移大杉社と文化十酉年(1813年)と読める。
どれも、
文化十酉年(1813年)が共通だね。
果たして、
この標石は何なのか?
他の准四国八十八ヶ所の標石なのかもしれないが、
3基もあるとは。
ちょっと気にはなるが、
今のところはわからない。
ちなみに社殿の後方は崖になっていて、
遮蔽物は何もなくその先の方に手賀沼が見える。
この辺り一帯が手賀城だったと言われても、
なかなか想像できない。
ただこの眺めを見ると、
風景こそ違えどここにあったであろう城から同じようにその景色を眺めた人々が居たわけで。
そう考えると、
それはそれで案外楽しいものなのだ。
というわけで…
今回の東葛印旛大師88ポタリングは、
手賀城跡にある第64番札所。
他にも周辺にある長屋門や、
harumien okutegaなどなども一緒に。
旧手賀教会堂は、
以前書いたので今回はスルーした。
それにしてもこのあたりの道は、
城があった時の名残なのか随分とくねくねしている。
地図がないと迷ってしまいそうになるが、
それはそれで面白かった。
東葛印旛大師第64番札所ポタリングMAP
☆アイコンは過去分
自転車アイコンは今回分
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