旧村川別荘
昔々、このハケの道沿いの高台には多くの別荘があった。
でも、ほぼそのままの形で残っているのはこの『旧村川別荘』くらいだ。
今回はそんな旧村川別荘を訪ねてみよう。
門と池
ハケの道の入口からしばらく走っていると、右側に立派な門が見えてくる。南門だ。自転車は門の手前の石畳のところに停めて中に入ってみよう。
ここでは入場料を払うとか、入場に際するチェックなどは特にない。ただそのまま入って行けば良い。以前は市民ガイドの方がいろいろ説明して下さったが、今は難しいのかもしれない。
ちなみにこの南門は裏口。表玄関は斜面に建つ別荘のさらに上の一番高いところにある。最初に訪れた頃は、この門は確かまだなかったはずだ。
門をくぐると正面には湧水を貯めた小さな池がある。
行けの脇の木には『この池に魚を放さないでください。めだかより』のお願いがある。まあちょっとしたユーモアだな。
母屋への階段
右の竹林に思ったよりも急な細い階段がある。時々猫が居たりする。
そこを上って行くと左手に建物が見えてくる。
階段を上りきると、そこは平場になっていて、いかにも昔の建物だなという母屋が正面に見える。
母屋
この建物の当時の主は西洋史の大家・元東京帝大教授の村川堅固氏。
熊本生まれで、熊本の第5高等学校在学中の校長が加納治五郎であった縁で、大正6年に加納治五郎が既に別荘を構えていた我孫子に別荘地を購入。
大正10年に我孫子宿の本陣が取り壊される話を聞きつけ、その一部を譲り受けて解体移築したものだ。昔は瓦屋根ではなく、茅葺屋根だった。
村川堅固氏の後は、同じく西洋史学者の息子、村川堅太郎氏が引き継いでここを守った。
堅太郎氏が亡くなると、ここを国へ税金として納めなければならなったが、ご遺族の願いと市民の声に応え、市もここを何とか保存できないかと国へ働きかける。
そして、一度は例外的に更地にせずそのままの形で国へ物納、市が買い取るまで国からの維持管理委託を受け、平成13年に市がようやくここを買い取り今に至っている。ちゃんと残すことができて本当に良かったと思う。
この建物、よくよく見るといろいろと面白い。
建物の窓ガラスは、ゆらぎがあるから一見して昔のものだとわかる(もしかすると最近はそういう加工が施されているものがあるから、そういったものが混じっていたり、全部がそうだったりするかもしれないけど)。
昭和初期までのガラスの製造は、その技術不足から、歪みやゆらぎがあって、泡などの不純物も入っていた。でもそれが今見ると何とも味があって良い感じなのだ。
他にも古い建物だからこその味があちこちに見られるのが楽しい。
もちろん中もなかなかステキだ。
村川家所蔵写真絵葉書がいくつか額に入っているが、こんな時代があったんだなという感じだ。
沼見ベンチ
母屋の左には更に上に向かう階段がある。
その先には沼見のベンチ。
ここには『百年前の我孫子と旧村上別荘』のパネルがある。
写真を見るとこの別荘の下には水田が広がり、その先がもう沼だった。当たり前だが、今とはまるで違う失われた風景だ。
邸内にはこれも今とは違って松の木が沢山あったみたいだ。
表玄関
沼見ベンチの先の小路を進むと表玄関が見えてくる。
こじんまりとしたもので、下の門の方が立派だ。
新館
表玄関から入って右手は下りの階段になっていて、新館が姿を現す。
屋根が非常に印象的だ。
この2つの建物は大して離れているわけではないが、昔は電灯もなく真っ暗だったから灯篭が置かれていた。
凝ったつくりのその灯篭が新館に展示されている。
この新館は村川堅固が朝鮮視察時の印象をもとにしてつくったものだ。
基礎は鉄筋コンクリート、
屋根は軽い銅板葺き。
中に入ると先ず入口にバーナード・リーチがデザインしたという椅子が展示されている。
他にもいろいろ資料があるが、なんといってもこの建物の左手にある一面ガラス張りの部屋が素晴らしい。
当時は手賀沼が一望できたはずの広間の出窓。
きっと目の前にはステキな景色が広がっていたんだろう。
というわけで…
今回はハケの道にある旧村川別荘の紹介でした。
いつ行っても、良いんだか悪いんだか人はあまりいないので静かだ。
ボランティアの方なんだろう、よく手入れされていていつ来てもキレイで本当に気持ちが良い。
いつ来ても、何回来ても、ここが残っていて本当に良かったと思えるところだ。
良く南口のところで入ってみようかどうしようか?という方を見掛けるが、間違いなく入ってほしいところである。
基本情報
開荘日:火曜日~日曜日(月曜日・年末年始は閉館。但し月曜日祝日の場合は、次の平日が閉館)
開荘時間:9:00~16:00(入場は15:30まで)
入場料:無料
場所:我孫子市寿2丁目27番9号 ※駐車場はなし
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