
さて、天神坂を上ると、左手には三樹荘がある。
三樹荘

解説パネルには、元々ここが柳宗悦の姉であり、嘉納治五郎の姪である柳直枝子が構えた別荘であったこと、三樹荘と名付けたのは嘉納治五郎であったこと、直枝子の弟の柳宗悦が姉が結婚して空き家となったここに新婚家庭を営んだこと、等々が書かれている。
嘉納治五郎・柳宗悦/兼子夫妻
ちなみに嘉納治五郎は明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開いた人。『柔道の父』とか『日本の体育の父』とか呼ばれる。
そして、アジアで最初のIOC委員であり、戦争で失われた幻の東京オリンピックの招致に成功した人だ。
大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺』で役所広司が演じたのは記憶に新しい。
柳宗悦は民芸運動の始祖・宗教哲学者。兼子は声楽家だ。
自分はどれだけ此我孫子の自然や生活に負うた事であろう。
『白樺』大正十年四月号我孫子から
静かなもの寂しい沼の景色は、自分の東洋の血に適い、又東洋の思想を育てるに応わしかったと自分は思う。
手賀沼にはこんな時代もあったのだ。

三樹荘の繋がり
ここは民家なので一般には公開されておらず中に入ることはできない。表札は『村山』になっているので、かつてここに住んでいた村山祥峰氏のご家族が住んでいるのだろう。
白い門の奥の青い瓦の屋根が印象的なお家だが、これは元々の建物ではないようだ。

中に入ることができないのは残念だが、三樹荘のいわれとなった三本の椎の木は外から眺めるしかない。
昔はこのあたりまで天神様の境内で、3本の椎の木はご神木だったようだ。それぞれに『英知』『財宝』『長寿』という名前が付けられている。

柳宗悦が中島兼子と結婚をして、叔父の嘉納治五郎に誘われてここに移り住んだのは大正三年(1914)のこと。
その後、志賀直哉な武者小路実篤などが移り住んできた。
そういう意味では嘉納治五郎、そして柳宗悦がそのきっかけになったと言える。
庭の離れでは兼子が毎日のようにピアノを弾いていて、その音色は手賀沼に響き渡っていたなんて話もあるが、昔の手賀沼ならありえない話でもなさそうだ。
そうそう、兼子の使っていたそのピアノは白樺文学館にあったね。
その頃は、その離れのすぐ下までが手賀沼だったので、宗悦は小舟で志賀直哉邸まで行ったりしていたみたいだ。
また、火災で燃えてしまったが、庭の一角には窯があって、そこではイギリスの陶芸家バーナード・リーチが作陶に打ち込んでいた。

そういえばリーチの活動を顕彰した記念碑が手賀沼公園にあった。
急村川別荘にはリーチの椅子もあった。
陶芸繋がりで言えば、以前出てきた杉村楚人冠碑の陶芸家河村蜻山もここに住んでいた。
いろいろな場所がいろいろと繋がっていて面白い。それだけ狭いということなんだけどね。
というわけで…

三樹荘にまつわる話をいろいろと知ると、庭を散策したくなる。
期間限定とかで一般公開とかして下さったら嬉しいのだが、今のところ、そういった話は聞かない。
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