
案内パネルに出てこない島久別荘跡とは?

天神坂まで来てしまったが、少し戻ろう。場所は『瀧井幸作仮寓跡(寿古墳公園)』の手前。
何故か恒例の案内パネルには出てこないんだけれど、ハケの道の途中に訪れたいポイントの1つがある。それが『島久別荘跡』だ。
つい最近までこの場所の存在を知らなかったし、知って探した時には見つからずそのままにしていたのだが、今回のこのハケの道シリーズをアップし始めたので、改めて見つけに出掛け、ようやく発見した。
この『島久別荘跡』は、薬品商・島田商店の7代目店主で、後に薬品器械類直輸入商・島久商店の代表社員である島田久兵衛が現在の寿二丁目の丘の上に明治40年(1907)に設けた別荘跡だ。
島田商店は欧米の新薬の輸入販売をしていて日本の医学界に貢献、島久商店の方は日露戦争後に大連や京城にも支店を開いたらしい。
ここは現在我孫子で確認されている中では最も古い別荘だったみたいだ。ならば当然案内パネルに出ていてもおかしくないんだけれど、なぜかどこにも出てこない。跡にはちゃんと解説パネルがあるんだけどね。
杉村楚人冠が大森に代わる土地を求めて、同じく大森に住んでいた島田久兵衛に相談したところ、汽車の便が良いと我孫子を勧められて移り住んだとそこには書かれている。
ここには書かれていないが、明治末から昭和戦前期の画家・歌人の原田京平はこの別荘に住んでいたそうだ。その後この人は志賀直哉が我孫子を去った後に志賀直哉邸の母屋に留守居役として移住している。白樺文学館にはこの人がハケの道と手賀沼を描いた作品がある。
わかりにくい行き方

それで『島久別荘跡』へのアプローチ方法は2つある。
1つは旧村川別荘沿いの坂道を上ってあおむし君のおうちの脇を左に進んで、最初のかどを左に曲がって更に進んでまた左に曲がって行く方法。ただ、これが知らないと結構わかりずらい。案内パネルが途中にあるけど、ここのことはやはり書かれていないから余計だ。

もう1つはハケの道から階段を上っていくもの。

ただ、これも個人住宅への階段みたいになっているし、ここにも何も書かれていないので、なかなかそこから上ってみようとはなかなか思わない感じなのだ。

なので、他のハケの道のスポットと比べると、ここを知らない方、訪れたことがない方が案外多いのかもしれない。
子の神古墳群第8・9号墳がある?

いずれにしてもどちらからか向かうと小さな広場みたいな場所に出る。そこが『島久別荘跡』だ。
案内パネルとベンチがあるだけであとは何もない。高台にあるのだが、木が生い茂り手賀沼が良く見えるというわけでもない。近くにある瀧井幸作仮寓跡に似た感じだね。

実際、ここにも子の神古墳群のうち、第8・9号墳があるという。

どこがそうなのか?わかるものはないのだが、ベンチの脇の土が盛り上がっているところがその1つかもしれない。

もう1つは斜面の手前、柵の先にある感じだが、どちらにしてもそこには何も示されていない。
というわけで…

島久別荘跡の紹介でした。何もないが居心地は悪くない。

木々が生い茂り、快晴の日は葉っぱの色が映えてキレイだ。木々の隙間から僅かに手賀沼の水がキラキラと光っているのが見える。

それにしても古墳もあるし、我孫子最古の別荘跡だし、そう考えると案内パネルに出てきてもおかしくないのに何故ないのか?は不明だ。
散歩の途中でちょっと立ち寄るには悪くない場所である。
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